時代を超えても愛される味と“おもてなしの心”。佐世保名物レモンステーキと『下町の洋食 時代屋』の40年

佐世保名物「レモンステーキ」。その名を全国区へと押し上げた名店のひとつが『下町の洋食 時代屋』だ。ジュウジュウと熱々の鉄板からのぼる香ばしい和風ソースと牛肉、そしてきゅんと爽やかなレモンのハーモニーにいったいどれほどの笑顔があふれたことだろう。

割烹、洋食、米海軍のレストラン、そしてフレンチ。国境を越えたさまざまな食のジャンルで腕を磨いてきた初代・東島洋(ひろし)さんが生み出し、二代目となる兄弟が守り、磨き続けている味。“時代屋のレモンステーキ”は、どのようにして佐世保名物となったのか?

その一皿には、昭和から令和にわたる一家二代のストーリー、そして、今に続く“おもてなしの心”が込められている。最後の一口まで、ぜひ召しあがってほしい。

修行の日々の先に、文明開化の音がした

昭和30年代半ばの頃。初代・東島洋さんは、集団就職で佐世保を離れ、東京で料理人としての一歩を踏み出した。

熱心な学びのすえ「割烹服部流免状」を授かり、大手町プラザホテルや官公庁食堂の責任者を任されるまでに成長。若くして現場を預かる立場となり、味はもちろんのこと、段取りや再現性、限られた時間のなかで最高の一皿を創る力を徹底的に磨いた。

帰郷後は、さまざまな異文化が入り交じる佐世保が次なる料理人のステージとなる。割烹、洋食、エスニックなど学びのジャンルをさらに広げていった。

その後、米海軍御用達のレストランで料理長を務めた洋さんは、新たな食文化を体験することとなった。そのひとつが「ワンミニッツステーキ」。

タイムパフォーマンス重視かつ、量も必要な米海軍の兵士たちから、薄切り肉のステーキを注文されることが多かったのである。このことが、のちの“時代屋のレモンステーキ”誕生のヒントとなる。

それが形となったのは昭和40年代。佐世保市内のとある老舗洋食店でチーフを務めていた兄・紀孝さんと、レストランのヘルプをしていた洋さんは、オーナーからこんな相談を受けた。

「夏でもさっぱり食べられる新メニューを考えてくれないか」

東島兄弟は焼き肉を囲み、おいしい煙がもくもくと広がる部屋で作戦会議を行ったという。

「どがんとがよかかな?」

「兄貴、俺の店に来る米海軍が『ワンミニッツステーキ!』って言うとさ。薄切りの肉やったら重くないとじゃないかなぁ」

「ちょうど、おいたちの食べよる焼き肉って思えばよかね!」

「そうね。あと、米海軍に照り焼きステーキばしょっちゅう出しよるとさね。照り焼きソースにレモンば入れたら味のさっぱりせんかなぁ」

「おい達が食べよるとが一番うまかもんな!」

そんな会話を繰り広げながら、兄弟はレモンステーキを試作。異文化と修業の積み重ねがその原型を形作った。

その後、昭和47年に紀孝さんが開いた『日本の洋食 ふらんす亭』は名店へと成長。のちに市内の老舗レストランのオーナーとなるような優秀な人材が多く集まり、互いに切磋琢磨できる環境のなか、洋さんはさらに自分の信じるおいしさを磨き上げていったのである。

高級店から下町へ──「時代屋」誕生と再起の物語

高級感あふれる一期一会の料理や心に残るパフォーマンスが多くのリピーターを生み、さらには県内3店舗まで拡大。このとき、琴海店を任されていた洋さんは一家で引っ越し、飲食店デビューとなる奥様の栄子さんと二人三脚で店を切り盛りしていた。

のちに二代目となる長男・寿明さんと次男・寿海さんは、生まれたばかりの長女の洋子さんとともに両親の背中を見守った。

こうして順風満帆に見えた『日本の洋食 ふらんす亭』だったが、5年が経ったころ、兄・紀孝さんの病をきっかけに閉店を余儀なくされてしまう。

ふたたび佐世保に帰ってきた洋さんは再起を誓った。そして、昭和61年、栄子さんとともに、塩浜町に『下町の洋食 時代屋』を開く。

掲げたのは、文明開化のように“和と洋が溶け合う”、あたたかくて懐かしい洋食。昼はアラカルト、夜は創作コース料理というスタイルで、店は一気に拡大。二階まで改装し、百人近くを収容する大型店へと成長した。

しかし、ここでもまた苦難が降りかかる。バブル崩壊、続いて狂牛病問題が原因となり、客足は徐々に遠のいてしまった。

現状を打破しようと、佐世保駅付近で観光客のアクセスも良かった三浦店の改装オープンを決意した洋さん。メニュー構成の見直しなど試行錯誤を重ねるも業績が伸び悩むなか、創業20周年の節目にある一つの想いが芽生えた。

「レモンステーキを、佐世保の名物にしたい」

ここから、『時代屋』の第二章が始まった。

『時代屋のレモンステーキ』のおいしさはこうして広がり、『佐世保名物』となった

レモンステーキの原型が誕生したのは昭和40年代。かつて、兄・紀孝さんと洋さんが二人で考案したその味は、時代屋創業20周年の節目を経て、看板メニューとして改めてお披露目されることとなった。

薄切りの牛肉を熱々の鉄板に広げ、醤油ベースの甘辛いソースにレモンとニンニクを効かせて仕上げる。ソースを回しかけた瞬間、肉が踊り、煙が立ち上る。香ばしい匂いが一気に広がり、食欲を刺激する。客自身が好みの焼き加減で肉を返し、柔らかな一枚を頬張ればまさに天にも昇る瞬間。

さらに余熱の残る鉄板にライスを入れ、ソースを絡めてハフハフと味わうのが“時代屋流”。最後の一口まで幸せがつまった、なんとも贅沢な設計だ。

これまではひっそりと洋食メニューのひとつとして隠れていたその一皿を、誰でも気軽にそのおいしさにふれてほしいと価格を1,000円に大幅値下げ。これまであらゆる肉、あらゆるソースを試し、完成度を高めてきた一皿は、口コミとメディア取材を通じて一気に広がった。

当時のB級グルメ、ご当地グルメブームも追い風になり、インターネットや携帯電話の普及で、レモンステーキの香りはどんどん多くの人へと届いてゆく。こうして、「時代屋のレモンステーキ」は「佐世保名物」へと進化していったのだ。

二代目兄弟が背負う覚悟──味とおもてなしの心を継ぐ

平成18年。ここでまた、『下町の洋食 時代屋』に転機が訪れる。

高速道路インターからすぐそばの三川内地区・吉福店への移転が決まった。新たな挑戦のステージに加わったのは、次男の寿海(としうみ)さん。ホテルマンで培ったおもてなし精神でスタッフたちも束ねあげ、やがて代表を受け継ぐことに。

平成23年には長男の寿明(としあき)さんも加わり、かつては洋さん夫妻だったのが息子兄弟の二人三脚に。それぞれの商才やスキルを活かした経営体制が整った。

二代目の寿海さん、寿明さんに、『下町の洋食 時代屋』を受け継ぐ上で最も大切にしていることについて伺った。

寿海さん「先代(洋さん)が苦労に苦労を重ねて作り上げたレモンステーキを途絶えさせることはできません。その味を、寸分の狂いなく継承していくことが私たちの責任です。同時に、レモンソースの完成に至っては、当時多くの兄弟子の方々が携わり、先代と共に苦労をして創り上げた逸品です」

寿明さん「料理だけに限らず、レモンステーキを提供する際の所作や、心構えまで含めて受け継いでいる覚悟です。店舗では、挨拶に始まり、感謝や思いやりの心、時間厳守といった、一人の社会人としての基本から徹底します。『当たり前のことを当たり前にやる』姿勢がベースにあるんです。現在は10代から60代まで、25名のスタッフが働いてくれています。一人ひとりの力こそが『時代屋』の原動力。そして、それも含めて、お客様に選んでいただくお店として、今後も歩んでいきたいです」

時代が変わっても、人と人とのつながりの大切さは変わらない

「鶴瓶の家族に乾杯」「満天☆青空レストラン」「嵐にしやがれ」――

全国放送の番組で続々と取り上げられ、知名度は一気に広がった。しかし、二代目が見据えているのは、そのブームの先だ。

『下町の洋食 時代屋』が目指すのは、佐世保市民にとって当たり前の存在であること。また、県外から訪れた人が「また食べたい」と思い出す店であり続けること。

近年、飲食業界を取り巻く環境はとても厳しい。コロナ禍、物価高騰、社会情勢の不安。そのなかで“選ばれるレストラン”になるためには、並大抵の努力では実現は難しい。

「最後には結局、人と人とのつながりや信頼関係が大切なんです」と、二代目は説く。

お客様一人ひとりとしっかり向き合い、おいしさと真心を届けること。そのためには、まずはスタッフとの信頼関係をつくりあげることから始めなければならない。

「おいしい料理を提供するためには一切妥協はせず、心を込める。お客様が心地よく感じる空間をつくり、また来たいと思っていただけるような接客をおこなう……。言い出せばキリがありませんが、経営者は欲張りなんです(笑)」

守るべき伝統は守り、変えるべき部分は柔軟に変える。ひたすらハングリーに、ときには「温故知新」の心で。下町の、昔ながらの洋食屋は、鉄板のように熱い信念で、これからも歩み続ける。

レモンの酸味が引き立てるのは肉の旨みだけではない。佐世保という町で紡がれてきた『下町の洋食 時代屋』の縁と誇り、その歴史そのものなのである。

執筆 山本千尋

店 名
下町の洋食 時代屋
所在地

長崎県佐世保市吉福町172番地1号(Google Map)