銀色の守護神、SASEBOを走る。『有限会社 浦川ボデー』

早岐の街中や佐世保の幹線道路で、銀色のボディに大きく「SASEBO」と書かれたレッカー車を見かけたことはないだろうか。

その正体は、早岐3丁目に拠点を構える「有限会社浦川ボデー」。

板金・塗装のプロフェッショナルでありながら、事故車や故障車のレッカー移動を手がけ、24時間365日体制で佐世保の交通を守り続けるロードサービスのスペシャリスト集団だ。

代表の浦川達也さんは2代目。創業から半世紀、早岐に根を張るこの会社が歩んできた道のりを、じっくりと辿った。

トラック野郎は「シャフト」を見ている

浦川ボデーが「プロ」と呼ばれる所以は、巨大なレッカー車の派手な操作だけではない。もっと地味で、しかし決定的な「気遣い」にある。

例えば、大型トラックを牽引する際に行う「プロペラシャフト」の取り外し作業。エンジンの動力をタイヤに伝えるこの重要部品を外さないと牽引できない車種があるのだが、ベテランのトラック運転手ほど、レッカー隊員が外したシャフトをどう扱うか、じっと見ているという。

「一度レッカーされた経験がある運転手さんは知ってるんです。外したシャフトを、その辺の荷台に放り投げられたらどうなるか。結合部のグリスに砂利や泥水が混ざってしまうんです」

そのまま修理工場で組み直せば、後々故障の原因になる。現場や移動中は雨や泥にあたるからだ。しかし、浦川ボデーは違う。レッカー車の収納ボックス内に、シャフト専用の清潔な保管スペースを確保している。

「『泥がつかんように、シャッターの中のここに直しますけん』。そう声をかけて収納すると、強面のドライバーさんの表情が変わるんです。『兄ちゃん、よう分かっとるね。プロやね』と」

ただ運べばいいのではない。お客様の大切な商売道具を、最善の状態で送り届ける。それが浦川ボデーの流儀だ。

泥だらけになって作業をする現場の荒々しさと、お客様の車を扱う繊細な気配り。この二つが同居していることこそが、浦川ボデーが選ばれ続ける最大の強みなのだ。

手作りのレッカー車から始まった半世紀

浦川ボデーの歴史は、半世紀以上前にさかのぼる。創業は昭和43年(1968年)。浦川社長の父である先代が、早岐の地で個人創業したのが始まりだ。

元々は自動車学校の整備工場に勤めていた先代。独立当初は資金もなく、整備業を主に行っており、自前のレッカー車さえ持っていなかった。あるとき、近所の同業者に頼まれ、レッカーの仕事を請け負った。手動で巻き上げるタイプの古いレッカー車だった。

「これは仕事になる」そう思った先代は、そのレッカー車を借りて夜な夜な出動した。ただし、どんなに技術があっても、道具を人から借りていては仕事にならない。

「自分の車を持たなければならない」と痛感した先代は、なけなしの資金で近所の豆やさんで使われていた中古トラックを購入。自らクレーンを溶接し、手作りのレッカー車へと改造した。その手作りの車で、先代はどんな現場にも飛んでいった。

昭和48年(1973年)に法人化。当時、仕事の中心は警察からの事故処理依頼だった。

24時間、いつ鳴るかわからない電話。夜中の山道、雨の高速道路、時には海に落ちた車の引き上げ。どんなに過酷な現場でも、先代は必ず駆けつけた。その誠実な仕事ぶりが警察からの信頼を勝ち取り、浦川ボデーの名は地域に確かな実績として刻まれていった。

一方、現社長の浦川さんは、専門学校時代にガソリンスタンドでアルバイトを経験する。そこで学んだのは、お客様のニーズを先回りして捉えること。

「お客さんが何とかできんやろうかって言われたとき、その都度上司にお伺いを立てるのではなく、どんどん自分から提案していった。そうすると喜んでもらえたし、売上にもなった」

その姿勢が認められ、2年間のバイト期間中にアルバイト主任まで任されたという。その後、ダイハツのディーラーで整備士として腕を磨いた。奥様も同じくダイハツで営業職として活躍していた。

メーカーの看板を背負い、徹底して叩き込まれた「CS(顧客満足)」の精神。そこで培った技術と心構えを胸に、やがて父の会社へと入ることになる。

痛みを伴う承継、そして飛躍

最初は一社員として現場に立ち、やがて役員へ。父の背中を見ながら、一歩ずつ現場仕事を学んでいった。

しかし、代表への道のりは決してすんなりと進んだものではなかった。創業者である先代には、何もないところから会社を興し、一代で築き上げてきた強烈な自負があった。「社長という肩書きを取られたら死んでしまう」。そんな父だった。

その交代劇は、突然の「事故」によって引き起こされた。

ある冬の明け方、作業をしていた先代の操るクレーン車が、地盤沈下により転倒。先代は車体の下敷きになり、足を粉砕骨折する大事故に見舞われた。さらに追い打ちをかけるように、復帰を目指していた先代を脳梗塞が襲った。

身体の自由が利かなくなり、現場に出ることが叶わなくなった父。「俺が築いた会社だ」という父の無念さとプライド。さまざまな親子の葛藤を経て、2011年1月18日、浦川社長は2代目のバトンを握った。

社長就任後、浦川社長は時代の変化を見据えた大きな決断をする。父が築いてきた警察との信頼関係を大切にしながらも、事業の軸足を「保険会社のロードサービス」へと大きくシフトさせたのだ。

警察の仕事で積み上げた確かな実績と技術力。それを基盤に、保険会社との取引を拡大していった。そして、父との激しい議論を経て導入した大型レッカー車は、大型トラックの横転やバスの故障など、他社では断らざるを得ない案件にも対応できる体制を整えた。

それは、偉大な創業者である父を超え、自分の代で会社をさらに飛躍させるという、2代目の覚悟が形になった瞬間でもあった。

「SASEBO」の誇りと、覚悟

浦川ボデーの車両は、洗練されたシルバーに統一され、そこには社名よりも大きく「SASEBO」という文字が刻まれている。

「『浦川ボデー』とプリントしていても、県外の人はどこの会社かわからないでしょ。大事なのは、佐世保の会社であることをPRすることなんです」

50年以上の実績があるからこそ、「佐世保から来た」と分かれば、「ああ、あの浦川さんか」とプロ同士には伝わる。「SASEBO」の文字は、半世紀にわたりこの街の交通を守り続けてきた自負と、地域を背負って仕事をするという覚悟の表れなのだ。

しかし、その誇りの裏には、ロードサービスという仕事が持つ「過酷な現実」がある。インタビュー中、数々の面白い裏話を披露してくれた社長だが、水難事故の現場へ出動した時のことを語った時は、声のトーンが変わった。

車ごと海に転落した車両を引き上げるという困難なミッション。クレーンを操作し、水の中から車を引き上げる。その時、車内から若い女性と幼い女の子の姿が見えた。身投げだった。

「その子が、ちょうど自分の長女と同じくらいの歳だったんです」

現場で、涙が止まらなかったという。

夜中の山道での転落事故、高速道路での多重衝突、そして悲惨な人身事故。24時間365日体制で現場に駆けつける中で、想像を絶するような光景に立ち会うこともある。それでも、誰かがやらなければならない。誰かが行かなければならない。

「電話が鳴れば、どんな時でも現場に向かう。それがこの仕事です」

その重圧は、時として家族との時間さえも犠牲にしてきた。大切な家族の行事の時でさえ、電話が鳴れば現場へ駆けつけなければならない。「家族には申し訳ない思いもありました。でも、困っている人がいる以上、行かなければならない」

それは、この仕事を選んだ者の覚悟であり、誇りでもあった。

「全てに意味がある」――早岐という街で

インタビュー中、浦川社長の傍らで温かい眼差しを送っていた奥様の言葉がとても響いた。

「大切にしている言葉があって。『目の前で起きていることには、全て意味がある』という考えです」

先代との衝突も、手こずった承継も、悲しい事故現場での経験も。それら全ての経験があったからこそ、今の浦川ボデーがあり、今の強さがある。

その言葉通り、浦川ボデーは今、最強のチームワークで動いている。

「現場でよく言われるんですよ。浦川さんとこの社員さんはみんな楽しそうに仕事しているねって」

奥様の言われた通り、浦川さんはとても楽しそうだった。その楽しく働く姿が社員にも伝播し、最高の仕事を生み出しているのだ。

そして、浦川社長は穏やかな表情でこう語った。

「早岐は好きやね。この街で生まれ育って、この街で仕事をして。子供たちもここで育った。早岐という街があったから、今の浦川ボデーがあるんです」

半世紀以上、早岐という一つの街に根を張り、この地域の人々とともに歩んできた。派手な拡大路線ではなく、地に足をつけて、地域に密着して。それが浦川ボデーの流儀だ。

実は、県外や遠方からの依頼が来ることもあるがは極力断っているそうだ。

「遠方に出動すると、その間、地元の依頼が受けられなくなるんです。早岐や佐世保で困っている人を待たせてしまう。それは本末転倒じゃないですか」

売上を追うのではなく、地域を守ることを優先する。それこそが浦川ボデーの誇りであり、半世紀かけて築いてきた地域との信頼関係なのだ。

車のトラブルで困ったとき、銀色のトラックが駆けつけてくれたら、思い出してほしい。彼らは単なるレッカー屋さんではない。

早岐という街を愛し、「SASEBO」の看板を背負い、技術と覚悟、そして深い愛情で街を守る、最強のレスキューチームなのだ。

取材・執筆 出口やえの