大切なことは”Pay It Forward(恩送り)”『株式会社オネスト 代表 村瀨 高広さん』

「よく、仕事が好きでしょ?と聞かれることがありますが、実はそんなに好きな方ではないんです」

インタビューの冒頭、村瀨高広さんはそう言いながら笑った。そんな彼の笑顔につられて、こちらもついほほ笑んでしまう。村瀨さんの笑顔には、人を引きつける不思議な魅力があった。

仕事は好きな方ではない——そんな印象的な言葉とは裏腹に、彼の肩書は多い。

大塔自動車学校ファーストイン早岐グランドファーストイン佐世保という二つのホテル、さらにレンタカー事業の経営。グループ企業全体の指揮を執りながら、早岐地区地域団体「ハイキーパーソン」の副会長も務めている。

村瀨さんの仕事は、人が立ち寄り、通り過ぎ、次へ向かう場所ばかりだ。

いつも誰かの人生の”通過点”にある。

アメリカでの経験が、彼の人生を変えた

村瀨さんは、佐世保市大塔町で育った。

「大塔町も早岐地区も、昔は田んぼばかりでしたよ。子どものころは毎日、川や山へ遊びに行って、ほんと野生児のようでした」

家業である自動車学校は、大塔町の踏切を渡った場所にある。子ども時代の村瀨さんにとって、家業は特別なものではなく、生活の延長線上にあった。

人生の転機は、中学一年生のときに訪れる。親の勧めで、ロータリークラブの交換留学制度を通じ、アメリカ・サンディエゴへ一か月間のショートステイに参加した。

参加者のほどんどは高校生や大学生で、彼は最年少だった。

「何もかもが初めての経験でした。正直、訳が分からなかった。でも“楽しいところ”という印象だけは、今でも強烈に残っています」

言葉が通じなくても、気持ちは通じる。この時の体験が、次の未来へとつながっていく。

高校卒業後、大学受験に失敗し、浪人時代を過ごしたのも、あの時と同じアメリカだった。語学留学先のカリフォルニア州オレンジカウンティは、海まで車で15分。サーフィンとスノーボードに夢中になった。

アメリカの大学には進学したが、最終的には中退。それでも後悔はしてはいない。

「あのアメリカで過ごした時間が、私の人格形成に多大な影響を与えたと思います」

特に大きかったのは、人の目を気にしなくなったことだ。

「アメリカの文化に触れて、自分の器の小ささがよく分かりました。人は人、自分は自分、とそう思えるようになったんです。いろんなことを気にし過ぎていたのかもしれませんね」

20歳からの3年間、人生で一番元気で楽しい時期をアメリカで過ごした。

覚悟はしていた。だからこそ。

ムラセグループの原点は、昭和34年。当時は、まだ多くの人が自動車免許を持っていない時代だった。

「川棚高校の生徒さんたちが就職するにあたって、免許取得のお力になれれば——」

そんな想いから、当時川棚高校のPTA会長を務めていた祖父が車を3、4台準備し、川棚町で始めたのが小さな自動車練習場だった。

昭和41年に大塔へ移転し、昭和42年指定自動車学校へ。昭和49年にはレンタカー事業もスタートし、その後ホテル経営にも参入した。

「二代目の父が頑張って、事業をどんどん拡大していきました。父も86歳になりましたが、今でも元気で、会社に顔を出しては社員たちに声をかけてくれます」

祖父や父の背中を見て育った村瀨さんは、帰国後23歳で家業の自動車学校に入社した。

「若気の至りで少し調子に乗ってしまい、甘えた気持ちで会社に入りましたが、当然ながら社会は厳しい。全然甘くなかったですね」

三代目という立場は、期待もされるし、見られ方も違う。そんなプレッシャーと向き合いながら少しずつ経験を積み重ね、35歳で社長に就任。経営者としての責任の重さが一気にのしかかった。

「私より年上のスタッフが多く、しかも私は先代の息子です。関係性の構築もそうですが、社長としての役割の大きさにも苦労しました」

ハウステンボスが人気を博し、観光客は増え続けると誰もが信じていた。

しかしバブルは崩壊。ハウステンボスの苦境とともに、町の空気も変わっていく。その渦中で、逆境と真正面から向き合うことになった。

観光業界が苦戦を強いられるなか、二つのホテルを経営するのは容易ではない。グランドファーストイン佐世保のフロントから見える片側二車線の道路に、人も車もほとんど通らない光景を目にした。

「見ているだけでつらかったです。でも、やめるという選択肢はなかった。どんな場面でも、諦めずに前へ踏み出せる人間でなければ未来はないと思ったんです」

厳しい現実に直面しながらも、逃げずに一つひとつ問題解決に取り組むうちに、考え方が変わっていった。

「マイナスなことが起こるのは、何かが足りないから。足りないものを足していけば未来が見えてくる。罰ゲームだと思っていた出来事も、成功につながるきっかけだと捉えられるようになりました」

町のことを考えるようになった理由

令和2年、二度目の危機が訪れる。コロナ禍により、ホテルは初めて休業に追い込まれた。

「365日24時間動いていたホテルが、突然止まりました。正直、頭が真っ白になりました」

しかしこの経験が、村瀨さんの視点を変えた。

交通安全活動や少年サッカー支援、ロータリークラブでの慈善活動、ハイキーパーソンへの参加など、地域貢献活動を通じて、会社だけでなく町全体を見るようになった。

「自分たちだけでは限界がある。地域と企業が一体となって町を盛り上げることで、お互いが発展していくと気づきました。企業は社会の一部ですから」

副会長として活動するハイキーパーソンについても語る。

「地域の皆さまに少しでも恩返しがしたい。メンバーだけでなく、町の人たちが『こんなことをやってみたい』と想像したことが、実現していくような取り組みにしたいと思っています」

絵に描いた餅を、実現するために

将来について尋ねると、迷いなく答えた。

「まずは目標を立てます。目標は大きい方がいい。よく『絵に描いた餅』と言われることもあります」

それでも大きな夢を描くことをやめない。

「夢がなければ未来への一歩は踏み出せない。今取り組んでいるドローンスクール構想もそうです。まず挑戦してみる。やれそうなら前へ進める。できない理由ばかり考えていたら、何も始まりません」

仕事は好きな方ではない——そう笑いながら言い切る。

通過点をつくる仕事。人と町をつなぐ役割。

諦めずに続けてきたからこそ見える景色がある。

そしてその歩みもまた、彼にとっては一つの通過点にすぎない。