5歳で決めた「私が継ぐ」。正論で突き進んでいたリーダーが発見した本当のつよさ『株式会社ヒューマングループ 代表 内海梨恵子さん』

「私の人生、めちゃくちゃシンプルなんですよ」

ふわりとした穏やかな声色とは裏腹に、その言葉はとても重い。

内海梨恵子さん。『株式会社ヒューマングループ』代表取締役を務めており、自動車教習所・貸切バス・観光業の三本柱の指揮を執る。さらにオフィスを飛び出して、マルシェやセミナーなどの自社イベントを企画し、赤いエプロン姿でカフェスタッフのお手伝いをしたりとエネルギッシュ!

そんな多忙な日々の癒しはもっぱら、夫・暢邦さんと愛犬ミルキーとの時間だ。

両肩に背負うのは創業70年を超える会社のあゆみ。祖父が興し、父が守ってきた家業を、得意分野のITなどを活かし新時代へと繋いでいる。

DX推進による社内の業務環境改善や、noteでの取り組み発信にも余念がない。

いつも目の前には、尊敬する父の背中があった。「私が跡を継ぐ」の野望を胸に戦車のごとく突き進んだ5歳から30代。そして、“師匠”からの言葉で現状を打破し、会社とともに未来へと進むその姿を追う。

父への深い憧れと、 5歳で胸に抱いた「反骨の灯」と

ずっと変わらない憧れの存在は、経営者である父。

家庭を顧みることは少なかったが、祖父と共に会社と従業員を守る姿はなによりも眩しく、幼い頃の梨恵子さんは「一刻も早く戦力になりたい、大人になりたい」とつま先に力を込め、一生懸命に背伸びをしていた。

「お風呂上りに、父の七三分けを真似するほど尊敬していたんですよ」と照れくさそうに笑うが、それは、小学校の卒業文集に書くような“将来の夢”ではなく、生存戦略に近い、切実な覚悟だったのだろう。

そして、梨恵子さんの心には早くから、ある種の“違和感”が根付いていたという。それがはっきりとしたのは5歳の時だった。

父が所属していた青年会議所の家族会での出来事だった。華やかな歓談ムードのなか、大人たちが父に「男の子はまだですか」と悪気なく問いかける。

「女ではダメなのか?なぜ?」どうしても納得がいかなかった。

「大人の何気ない一言って、子どもはちゃんと聞いてるんですよね。きっと悪気はなかったんでしょうけど、私はムッとしてました。言われた両親が喜んでいない感じも子どもながらに察知していて。それで、『私が(跡継ぎを)するよ』って言い出したんです。それからずっと『男の子に負けない』って思ってました」

『人に優しくするためには、自分が強くなれ』『横で一緒に泣くな。守れる強さを持て』。親子のコミュニケーションのなかで交わされる経営者としての心得は、熱い梨恵子さんの心をまっすぐに形作っていく。その小さな手で掴んだ武器は、“自分の両足だけで立てる強さ”と“正論”だった。

「先生や周りの大人が『女の子らしくしなさい』とたしなめるんですけどね。知らんがな、ですよ(笑)。私は私なのに、って」

自分だけでなく周囲への妥協も許さなかった梨恵子さんは、「学校」という集団生活の場において、自己を貫く一匹狼へと進化していった。社会への反骨心を練り混ぜながら、父のような経営者を目指す野望はより一層硬く、鋭く研ぎ澄まされていったのである。

とつぜん訪れた継承と、理想に燃えた「23歳の帰郷」

人生の転機は、梨恵子さんが小学4年生の時に突如として訪れた。創業者の祖父が心筋梗塞でこの世を去ってしまったのである。昨日まで当たり前にあった日常が、一日にして「経営」という戦場に変わった。

両親は悲しむ間もなく会社を維持するために奔走。梨恵子さんと妹さんは、放課後になると会社の一角にあった託児所へと「出社」する日々が始まった。とはいえただじっとしていられず、スタッフからコピー機や輪転機の使い方を学んで仕事のお手伝い。

“家族の役に立っている”実感を得ながらも、将来ここに立つ自分の姿を思い描いていたことだろう。

その後、IT化が進む時代の波を感じ東京理科大学経営学部へ進学。当時は就職氷河期の真っ只中だったが「佐世保へ帰り、かならず父の跡を継ぐ」ゴールは変わらなかった。ITに関してはもちろん、経営の本質も学んでから持ち帰ろうとベンチャー起業塾の門を叩いた。

「これからの時代の社長は発信力も大切だからと、『日記を毎日書く』という課題があって。1,000日ぐらい、就活のこととか色々書いてました。たぶんそれが、いま行っている発信(noteやSNSなど)のルーツだと思います」

一時、就職して経験を積むか悩んだ時期もあったが、起業塾で出会った経営者から「大企業の歯車になるより、お父さんの側で学ぶ方が近道だ」とアドバイスされ、23歳で佐世保へ戻ることを決意する。

スタバもTSUTAYAもない当時の地元に戻ることに抵抗がなかったわけではない。しかし、梨恵子さんを突き動かしていたのは「早く認められたい」という焦燥感にも似た情熱だった。

 「まるでモーゼの十戒の波のように、人が離れて」―長い孤独の先に見つけた光

晴れて株式会社ヒューマングループへ入社した後、マーケティングディレクターとしてシステムの構築や旅行業務の改善に乗り出す。ITの知識を武器に、アナログだった社内を次々と変えていった。

しかし、その「正しさ」は、長年会社を支えてきたベテラン社員たちにとっては、歓迎すべきものではなかった。彼女が良かれと思って提案する改善案はことごとく跳ね返され、現場には見えない溝が広がり始める。

それは、後に「暗黒期」と呼ぶことになる、長い孤独な戦いの序章に過ぎなかった。

30代に入り、梨恵子さんが現場の責任者として本格的に指揮を執り始めると、軋轢はピークに達した。まるで見えない壁に阻まれているようなその様子を、彼女は自嘲気味に「モーゼの十戒の波みたいでした」と話した。

「でもなんか、負けないぞと思って。業績を良くしたかったから」

その手に宿っていたのは、やはり「正論」という武器。数字を出し、業績を上げることが経営者の仕事であり、それを達成できないスタッフには厳しく改善を求める。今思えば、そこには経営者と社員との認識の隔たりがあったのだ。

「利益が出たとき、感謝の気持ちとして用意したプレゼントさえも不満の火種になりました。こんなに考えが違うのかと、ようやくそこで知ったんです」

追い打ちをかけたのは、最も尊敬する父からの言葉だった。

「会社は私達(経営者)のものではない。今のままでは、とてもじゃないが会社は任せられない」

誰よりも会社を愛し、24時間365日仕事のことを考えている自負があった梨恵子さんにとって、なによりもショックだった。会社だけではなく、男性社会が強い若手経営者同士の繋がりの中でも、同様に軋轢を感じ、八方ふさがりの状態が続く。

自分を責め、心身ともに削られていく日々。どうしたらいいのか。もがき、あがいていくうちに10年の月日が流れた。そんな暗闇の中を彷徨っていた梨恵子さんの手を引いてくれたのは、26歳の頃からお世話になっていたハウステンボス創業者の神近義邦氏(故人)だった。

長所を見つける「ストレングスファインダー」との出会い

「最終的に、人は変わらない。だから、自分が変わるしかない」

尊敬する師匠・神近氏と父は、梨恵子さんにそう説いた。

これまで正論で相手をねじ伏せていた。けれどそれでは何も変わらない。

「相手の短所とばかり付き合っているんだよ。でも、人には必ず長所があるんだから、良いところを見てたらどんな人のことでも好きになるし、付き合っていけるはず」

そんな神近氏のアドバイスは、梨恵子さんに「ストレングスファインダー」との出会いをもたらした。

自分の思考特性を客観的に分析する「ストレングスファインダー」。そこで示された梨恵子さんの強みは「目標志向」「達成欲」「未来志向」「自己確信」。

それは、目的地を決めたら脇目も振らず最短距離で突き進む、まさに「戦車」のような特性だった。衝撃的だったのは、その強みが「暴走」した時、周囲をなぎ倒してしまう破壊力を持っているという事実だった。

「私は優しくないんじゃなくて、ただ出力が強すぎただけだったんだ」

幼い頃から、長年自分を責め続けてきた「性格の欠陥」という呪縛から解放された気がした。

「そこで初めて、ブレーキを装着してもらったみたいな感じ。そっか、って。だから私は強みを伸ばすんじゃなくて、もっとちゃんと相手を見てあげなきゃいけなかったんだって気が付いたのが2019年。だいぶ最近です」と苦笑する梨恵子さん。

すかさず自身もストレングスファインダーのコーチ資格を取得し、全社員に受講をすすめた。それぞれの特性が可視化されたことで、絡まっていた糸が一本一本ほどけるように腑に落ちていった。

「人は、一人ずつ違いますよ、と。だから自分がしてほしいことじゃなくて、相手がしてほしいことを見る。悪いところじゃなくて、その人のもつ強みをそれぞれ見て、互いが尊敬しあい、発言しあえるような会社に変えますって、言いました」

梨恵子さん自身も、スタッフに対して「私はこういう時、暴走しがちだから止めてほしい」と、自らの弱点を開示した。まとっていた、鋼の装甲をすこしはがした日。会社にはかつてない風通しの良さが生まれ、離職率は劇的に改善していったのである。

遊び心とDX、そして佐世保の未来へ繋ぐバトン

さらに、梨恵子さんを大きく変えたのは、夫である暢邦さんとの出会い。「いつも頑張っているね」と、結果ではなく過程を肯定してくれる存在だ。

「うまくいかない自分でも、いいよって言ってくれる。例えば私、徹夜で作業してたりとにかく頑張っている姿を人に見せたくなくて、出来る自分を演出したかったんですけど。おかげで『これ、すごい大変だったんだよね!』って言えるようになったんですよ」

現在の梨恵子さんは、かつてのピリついた雰囲気を感じさせない、しなやかな空気を纏っている。

経営スタイルは「DX(デジタルトランスフォーメーション)」と「アナログな対話」の融合だ。AIやITを活用して無駄なルールを徹底的に排除し、その分生まれた時間で、スタッフ一人ひとりの個性を大切にする対話を行う。そんな取り組みが、『日本DX大賞2025 業務変革部門』で優秀賞を受賞するなど各方面で高く評価されている。

「スタッフのみんなが自分に誇れる仕事ができる会社でいたい。そんな大人が増えれば、きっと子供は大人になるのが楽しみになるから」

その信念のもと、「ヒューマンスクール早岐校」を中心に「ヒューマニティーパーク」を建設。現在は夫・暢邦さんの写真スタジオや、自身が手掛けるカフェ「Pono」が、さらなる地域とのつながりを広げている。

佐世保という街を「誰もが才能を花開かせることができるステージ」に。

5歳の少女が田んぼの中で描いた夢は、幾多の挫折と暗黒期を経て、より広く、より深い愛に満ちたものへと進化した。かつて「男に負けない」と尖っていた少女は今、多くの仲間に支えられ、大好きな佐世保の街で、人々を幸せにするためのタクトを振っている。

人がいて人が生き人と会いふれあう心
まごころ通うヒューマニティ
—『株式会社ヒューマングループ 社歌』より一部引用

社歌の一節にあるように、時代が変わっても根底にあるのは人と人のつながりだ。シンプルだけど一筋縄ではいかない、あたたかいけれど冷たい、そんな表裏一体のものと向き合う“つよさ”を、きっと、梨恵子さんは見つけただろう。

本当の「ヒューマン」としての歩みは、ここから加速していくのだ。

取材・執筆 山本千尋