シャッターを切る。その先の人生に寄り添う“写真の持つ力”を信じて。『株式会社 森白汀 代表 内海暢邦さん』

かつて、栄町の一等地で人生の節目を記録し続けてきた老舗『フォトスタジオ森白汀』。

祖父、父と続いた創業85年の節目に、三代目の暢邦さんは早岐3丁目にある『ヒューマニティパーク』へと拠点を移した。やわらかい自然光が差す新スタジオは暢邦さんの理想の城だ。

1975年に生まれ、バブルの熱狂とともに育ち、音楽や映画を愛したひとりの青年は、いかにして写真という“一生の仕事”に向き合うようになったのか。

フィルムからデジタルと写真をとりまく価値観の変化、そして、両親との別れを経てより深く心に刻まれた“写真の持つ力”。さまざまな経験を経て、さらにデジタルが加速する現代における「飾る写真」の重要性についても語る暢邦さん。

一見クールでいて、その奥底には、写る人の人生を丸ごと受け止めようとする、静かな情熱が流れているのだ。

「待望の三代目」のレールから、少し降りてみた

暢邦さんは、佐世保の中心地・栄町で生まれ育った。実家は祖父の代から続く写真館。両親は共働きで忙しく、幼稚園が終われば店へ向かう“鍵っ子”だったという。

バブルの好景気とあいまってホテルや結婚式場も賑わい、毎日のように出張撮影の依頼が絶えなかった時代。祖父は忙しい仕事の合間を縫って、スタジオの目の前にあった百貨店・佐世保玉屋でお菓子を買ってくれ、公園に連れて行ってくれた。

「お坊ちゃま的な、サスペンダーボーイでしょうか。もう、人生の全盛期と言ってもいいぐらい(笑)。毎日のようにレディーボーデンを食べてるような贅沢さでしたね」

しかし、家業を継ぐことに対して最初から熱意があったわけではなかった。周囲からは待望の長男として、生まれた瞬間から「跡取り」の空気を纏わされていた。それが心地よくもあり、どこか逃げ出したくもあったという。

少年時代の夢は弁護士。テレビドラマで見た、白黒をはっきりさせる論理的な姿に憧れた。だが現実は厳しく、大学受験を機にその道は断念する。

暢邦さんのベクトルは写真が学べる大学へと向き、当時あった東京と福岡の大学どちらかを検討した結果、父と同じ大学ではなく、福岡の九州産業大学写真学科を選んだ。

そこから写真にガッツリと向き合った……!? わけでもなさそうだった。大学時代の暢邦さんは、写真よりも音楽にのめり込んだ。アナログレコードを求めてショップを巡り、ヒップホップやラップ、DJ文化にどっぷりと浸かる。

写真は課題をそつなくこなす程度で、バンダナを巻きベストを着込み、気合を漲らせる同級生たちをどこか冷めた目で見ていた。そんな暢邦さんが初めて「写真を仕事にしよう」と腹をくくったのは、卒業後に修行をした福岡の老舗スタジオでのことだ。

そこで目にしたのは、外国人のブライダル撮影という、これまでの古い写真館のイメージを覆すハイカラで洗練された世界だった。

「スタジオの空間も、そこで撮影される写真も、なにもかもがすごいなと思って。『ここで撮った写真が好き』っていう想いがまずあって、そこから自分の生活のための仕事としてやっていこうかなって思い始めたんです。それまでの僕は本当に、ただ淡々と写真を撮っているだけでしたから」

23歳の時。ようやく写真家としての人生が、静かに、しかし確かに動き出した。

「1日で最多26件の結婚式」怒涛の修行時代が教えてくれた第三者の視点

福岡の老舗写真館に入社して二年半。修行時代の記憶は、凄まじい「数」の経験とともに刻まれている。最盛期には、一日で26件もの結婚式が行われた。13件の挙式を午前と午後で2回転させる。

そんな異常なスケジュールの中、暢邦さんはアシスタントとして、あるいは若手カメラマンとして走り回った。

当時はまだフィルムの時代だ。現像、プリント、台紙貼り、そして打ち合わせ。平日は前撮りに明け暮れ、土日は朝から晩まで披露宴のシャッターを切り続けた。

「佐世保での一生分ぐらいの結婚式を撮ったかもしれないです」と、暢邦さんは振り返る。

経験を積み重ねてきた現場は、技術を得ることだけにとどまらなかった。

「もちろん、新郎新婦は全然知らない人です。けど、撮影に入ると、お二人のこと、そのご家族のこと、さらにはご友人まで、そのお人柄や想いにふれることができるんです。彼らの人生を第三者的に見ることができるから、それぞれにストーリーがあって、感慨深い。なおかつ、報酬をいただけて感謝される。こんなに素晴らしい仕事はないなと思って、ずっとやってたんですよ」

同時に失敗の重みも知った。仲間が車上荒らしに遭い、一度きりの結婚式のフィルムを全て失うという悲劇を目の当たりにした。また、指が震えそうなほど張り詰めた緊張感の中でシャッターを切ることもあった。

どれだけ慣れても、写真は生もの、そして「一生もの」だ。撮り直しはきかない。その緊張感が、暢邦さんの中に「絶対にクレームを出さない」「一分一秒を疎かにしない」というプロとしての矜持を育てた。

今でも暢邦さんはスタッフに説く。

「1,000円の証明写真であっても、それが履歴書用ならその人の人生がかかっている。金額で仕事の手を抜くことは、写真家として許されない」

修行時代の荒波は、暢邦さんという写真家の土台を、鉄のように強固なものにしたのである。

帰郷、そして「ギャップ」との闘い。三代目としての静かな決断

修業期間を終え、26歳で佐世保に戻ってきた暢邦さん。待っていたのは、理想と現実の激しいギャップだった。

福岡の最先端スタジオで学んできた自分と、古き良き(しかし変化の少ない)実家の写真場。仕事のやり方、写真のトーン、全てが違った。あまりの落差に「もう福岡に戻る」と親と衝突したことも一度や二度ではない。

しかし、逃げるという選択肢はなかった。

「やっぱり、育ててくれた親への感謝と、僕自身の意地っていうか。写真を選んだわけじゃないですか。23歳で弟子入りをした時点で、自分の人生は写真でいこうって、そう決めたから」

父とは経営理念が根本から違った。父は自らの写真を「作品」として捉える芸術家肌だったが、暢邦さんはどこまでも「お客さんのための写真」にこだわった。

自分の名前が売れることには興味がない。納品された写真を見て、数年後に「あ、やっぱりこの写真いいな」と思ってもらえること。撮られたことすら忘れるほど自然に、その人の魅力を引き出すこと。それが暢邦さんのスタイルだ。

三代目社長を継いだのは、帰郷から11年が経った頃。大々的な就任式があったわけではない。「明日から社長ね」という、いかにも職人気質の家庭らしい、唐突な代替わりだった。

それからしばらくは、祖父から父へと続いた流れを、そのまま続けていくことに徹した。しかし、心の中では常に「自分の居場所」を求めていた。

栄町のスタジオは、暢邦さんが生まれた年に建てられたもので、ゆうに50年の月日が流れていた。かつては一等地だった場所も、時代の移り変わりとともにその役割を変えつつあった。

その中で暢邦さんは、梨恵子さんというパートナーと出会い、人生最大の決断を下す。それが、現在の地である早岐エリア―—梨恵子さんが経営する株式会社ヒューマングループの新たな拠点『ヒューマニティパーク』への移転だ。

「もしあの時、移転を決めていなかったら、スタジオを畳んでフリーランスになっていたかもしれない。そっちの方が、いいですもん」

これまで積み重ねてきた経験を糧に、場所も、経営も、一から自分の手で作り直す。その覚悟が、三代目としての本当の始まりだった。

両親との別れが教えてくれた、写真の「本当の価値」

近年、暢邦さんは相次いでご両親を亡くした。特に、栄町のスタジオの最終営業日、記念にと撮影した母親の写真が「最後の一枚」となったことは、暢邦さんにとって大きな救いとなったという。

それまでは仕事として何万枚、何十万枚とシャッターを切ってきた。だが、いざ自分の親がいなくなったとき、手元に残された写真が、亡き親と自分を繋ぐ唯一の架け橋になったのだ。

葬儀の場。飾られた遺影の前で、訪れた友人たちが、写真を手に両親の若かりし頃の思い出を語る。暢邦さんが知らなかった学生時代の姿やかつて愛した風景。それらはすべて、写真というきっかけがあったからこそ現代に蘇った物語だった。

「人は亡くなったら、最終的に思い出なんですよ。写真を見れば、故人が生きていた頃を思い出しながら、みんなで語り合うことができる。それ以外何もないんです。本当に、写真が伝える力は非常に強いもの。だからこそ、写真をいっぱい撮ってほしいなって、両親のことをきっかけに、なおさら感じたんです」

「写真の価値は、その人が亡くなった時に本当の意味で完成するのかもしれない」
そう感じたとき、いまの仕事にいっそうの誇りを感じた。

そして、その価値をよりお客様に伝えないといけない、そんな使命感も生まれた。

だからこそ暢邦さんは、“飾る写真”の大切さを伝え続けている。スマホやUSBの中に閉じ込められたデータは、ふとした瞬間に心を慰めてはくれない。

朝起きてリビングの壁に目をやったとき、そこに家族や愛犬の笑顔があること。その一瞬の視覚体験が、殺伐とした現代社会を生きる人々の心の安らぎになるのだと信じている。

ビジネスとしての写真は、デジタル化や価格競争の波にさらされているが、暢邦さんが対価とするのは単なる画像データではない。数十年後、誰かがその写真を見て、失われた時間や愛情を思い出すための「鍵」を渡しているのだ。

謙虚さを胸に、共に歩むパートナーとチャレンジ

いま、暢邦さんの隣には、パートナーとしても“経営者”としても支える女性がいる。文系で直感的な暢邦さんに対し、理系で読書家、常にビジネスを論理的に組み立てる梨恵子さん

「二人の趣味や考え方は正反対なんですが(笑)、だからこそ尊敬していますね」と、暢邦さんは謙虚に認める。続けて、「自分一人では、今の環境は作れませんでしたから」と、梨恵子さんへの感謝を滲ませた。

撮影に没頭し、納得いくまで仕上げる職人魂と、それを社会の中で“価値”として成立させる経営の視点。その二つが噛み合い、現在のスタジオは成り立っている。

瞬く間に時は過ぎ、拠点を移して四年目になる。かつての栄町の喧騒とは違う、早岐のまちの活力を感じる日々だ。このエリアは人口密度が高く、新しい層との出会いがある。

誰もを迎え入れる玄関のように建つ『ヒューマニティパーク』は、『フォトスタジオ森白汀』に加えてカフェもあり、人が軽やかに集える場所。撮影のロケーションやアイデアはもちろん、いろんな要素を結びつけて、多くの人と関わりながら、まちを元気にできればいい……そんな想いもある。

そういえば、暢邦さんも梨恵子さんも、愛犬「ミルキー」の話題になると、キリッとしていたお顔がふにゃっととろけてしまう。それだけに愛情が深いのだが、自身と同じように、ペットを家族として大切にしているお客様向けのイベントやサービスも構想中とのことだ。

すっかり話が弾み外が暗くなってきたころ、
「写真を撮る側としては、一生勉強です。自分は巧いんだ、満足だと思ったら、技術はもう伸びないんで。日々、今日より明日、ちょっとでも写真が上手になればいいなと思って、毎日生きてます」
と、取材の最後を締めくくってくださった暢邦さん。

50歳を超え、人生の折り返し地点を過ぎてもなお、暢邦さんの眼差しは向上心にあふれ、そしてどこまでも謙虚だ。

スニーカーを(梨恵子さんに呆れられるほど)コレクションし、海外ドラマを愛する趣味人の一面を持ちつつも、ひとたびカメラを構えれば、その人の人生の「一等賞」を切り取ろうと全神経を研ぎ澄ます。

佐世保という街で、三代続いてきた光の記録。暢邦さんが刻むこれからのシャッター音は、これまで以上に優しく、そして力強く、人々の心に寄り添っていくに違いない。

取材・執筆 山本千尋