この人たちと一緒に、生きてゆく『社会福祉法人風車会 鐘のなる丘 理事長 中村 鉄舟さん』

身体障害者福祉ホーム『鐘のなる丘』から見える景色に、思わず釘付けになった。小高いホテルのグリーンの尖塔越しにハウステンボスの街並みが広がっている。太陽の光できらきら輝く早岐瀬戸は、まるで運河のようだ。

「佐世保じゃないみたいですね」

口がぽかんとなった私に、理事長の中村鉄舟さんは「毎日見てる光景ですよ」とほほえんだ。

鉄舟さんは、両親の理念を継ぎ、ITからホテルの支配人を経て、現在は福祉の現場に立つ。

「理事長としては10年くらいになります。でも、現場に入ってからは3ヶ月。まだまだ駆け出しなんです」

“とんがり帽子”の下で寄り添う日々

鐘のなる丘』の屋根には、施設のシンボルともいえる鐘楼がある。利用者ファーストの運営を貫いてきた結果、創立から28年経ったいまも、そこに鐘は取り付けられていない。

それでも、“とんがり帽子”のようなそのシルエットには、創立者である鉄舟さんの父―中村鐵男さんの想いがこもっている。

「父が小学生の頃に、『鐘の鳴る丘』という映画を観て影響を受けたようです。レストランやホテル事業の経営をしながら、平成10年に社会福祉法人風車会を設立し、この施設を作りました」

映画『鐘の鳴る丘』は、戦争孤児たちが福祉施設で共同生活を送り、支えあいながら生きていく物語だ。施設の建築デザインは、作中に登場する建物をオマージュしたものだという。

「皆さん本当にお元気で、個性豊かなんですよ」

そう言って鉄舟さんが案内してくださったのは、グループホームに隣接する生活介護センター。日中は、利用者が職員のサポートを受けながら、まるで家族のように時間を共にしている。

情報収集が得意な“お天気博士”は、心を開くと手作りのアクセサリーを贈ってくれる。やよいさんは「純烈」推しで、カラオケが日課。石黒賢ファンの“けんえりピー”さんは、施設のSNSを通じて日々の暮らしを発信し、AIも使いこなす。その使い方を教えたのは、鉄舟さんだ。

場の緊張がほどけてきたころ、ひときわ豪快な笑い声が響いた。車いすに乗った男性―グループホーム利用者の一番の古株で、鉄舟さんの弟・太ちゃんだ。

「音楽が好きでね、綺麗好きで、おしゃれなんですよ。兄弟仲……? 良いと思いますよ。ちゃんとケンカもしますけど(笑)」

そう話す鉄舟さんの表情はとても穏やかだ。障がいのある弟とともに育った日常は、いまも変わらずここに続いている。

介護が「特別」ではなかった、家族の時間

鉄舟さんは三人兄弟の次男。二歳年下の太ちゃんに障がいがあることは、物心ついた時から理解していた。小学生になる頃には、ごく自然に家族と一緒に弟のお世話に加わっていたという。

「両親が仕事で家を空けることもあったので、そのときは兄と、近所に住む従弟たちと、子どもだけでお世話をしていました。尿を取る、抱えて移動させる。いつも5、6人が周りにいましたね。でも、大変だと思ったことはなかった。私たちにとっては当たり前でしたから」

そこに「介護をしている」という特別な感覚はなかった。暮らしの延長上に、弟の存在があり、家族の役割があっただけだ。介助の方法だけでなく、太ちゃんの生活スタイルに合わせた家の導線づくりやレイアウトについても、毎日のように話しあい、工夫を重ねてきた。

とはいえ、時代は昭和50年代。佐世保ではまだ障がいへの理解も浅く、バリアフリーという言葉すら一般的ではなかった。

「両親は、外出するだけでも苦労していたと思いますよ。そんな経験からか、父は当時運営に関わっていたレストランに市内初となるスロープを設置したんです。太ちゃんと同じく、障がいのある方々への思いやりを込めてのことだったんでしょうね」

太ちゃんとの生活の積み重ねが、やがて『社会福祉法人風車会 鐘のなる丘』の創立へとつながり、鉄舟さんの今のあゆみを形づくっていった。

遠回りの先で身につけた“人と向き合う力”

次男坊だった鉄舟さんは、どちらかというと「自由にさせてもらっていた」存在だったという。勉強熱心で親の期待を背負う兄、手のかかる弟。その間で、一抹のさびしさを感じながらも、サッカーや音楽に夢中になる青春時代を過ごした。

高校生の頃に抱いた夢は、尊敬する美容師への弟子入り。

しかし、IT事業を新たな軸としようとしていた父の期待を受け、泣く泣く断念。専門学校へ進学後、福岡と東京でIT関連の仕事に就き、世紀末の“2000年問題”を最前線で経験した。

転機が訪れたのは34歳のとき。当時、グループで手掛けたホテルの運営に携わるため、佐世保にUターンした。

レストランのウェイターから始まり、厨房、営業、フロント、設備管理まで、2年単位で業務をフルコンプリート。一年365日ならぬ、体感366日は働いたと思えるほどの激務だったと鉄舟さんは振り返る。

「サービス業を通じて、人とどう向き合うかを学べました。それぞれの立場から物事を見る大切さも。フライパンもちゃんとふれますよ(笑)」

40歳半ばには叔父のもとでホテル経営にも携わる一方、母が施設管理者を務める『鐘のなる丘』では理事長として運営を支えてきた。しかし、本来跡を継ぐはずだった兄が帰らぬ人となる。

悲しみに向きあう時間も十分に取れないまま、80歳を迎えた母と交替する形で、鉄舟さんは毎日の現場に立つこととなった。決して一直線ではなかったが、すべてが今につながっている。

現場に立って見えた、“理事長”という役割

2025年9月から、鉄舟さんは理事長と施設管理者を兼ね、実際に現場に立つようになった。書類や会議の中だけでは見えなかった日常がそこにはあったという。

「やっぱり実務をやらないと分からないなと思いましたね」

利用者の体調や気分、その日の空気。職員の表情や声のトーン。ほんの些細な違和感が現場では大きな意味を持つ。優しさだけでは守れない場面もあれば、厳しさだけでは距離が生まれてしまうこともある。その塩梅が本当に、むずかしい。

ITエンジニアとして論理の世界に身を置き、ホテル業界では多くの人と関わってきた鉄舟さん。その経験はいま、福祉の現場で確かに活きている。

「福祉って特別な世界に見えるかもしれないけど、本質は人との関わりです。障がいのある人も、ない人も、そこは同じだと思っています」

誰もが、いつかは誰かの手を借りながら生きていく。立場や状況が違うだけで、人は決して一人では完結しない。

「仕事にするか、生きがいにするか。あるいは意識しないで生きるか。その違いだけなんですよね」

福祉を「かわいそうだから助ける仕事」と捉えるのではなく、「人生を一緒に歩む仕事」として向きあう。その視点に立ったとき、理事長という肩書きよりも、現場に立つ意味がはっきりしてきた。

福祉の仕事に正解はない。だからこそ、一日一日を丁寧に積み重ねながら、鉄舟さんは自分なりの役割を探し続けている。

福祉とともに生きる——鐘のなる丘、その先へ

現場に深く関わるようになり、鉄舟さんが強く意識するようになった課題がある。鉄舟さんはそれを“65歳問題”と呼んでいる。利用者が65歳を迎えたとき、制度上の理由から、慣れ親しんだ環境を離れなければならないケースが少なくない。

「本人にとって、それが本当に幸せなのか。そこはずっと考え続けています」

一つの法人、一つの施設だけで解決できない課題だからこそ、福祉法人同士の横のつながりを強め、支えあえる仕組みを作りたいと語る。

一方で、この記事を通じて特に伝えたい相手がいる。それが、若い世代や、福祉に少しでも興味を持っている人たちだ。

「福祉の仕事って、技術もノウハウも、将来必ず役に立つんですよ。車いすの扱い方、手の引き方、家の中の動線。いざ必要になってから考えるのと、今から知っておくのとでは全然違います」

実際、80歳を迎えた母親が骨折したとき、これまでの経験が大きな支えになった。どう介助すればいいか、どこを改装すればいいかが自然と分かる。

「誰でも、いずれはそういう場面にぶつかります。だったら、どうせなら職業にしてもいいんじゃないかなと思うんです」

福祉の仕事は、確かに楽なことばかりではない。それでも——

「『一緒に生きていくんだ』と思えたら、ストレスにはなりにくい。兄弟を見ているようなものですから。動ける人が手を貸す。それが当たり前だと思っています」

『鐘のなる丘』の鐘楼には、今日も鐘はない。けれどここには、人生と人生が重なり合う音が確かにある。

鉄舟さんは今日も、誰かに手を差し伸べながら一緒に生きてゆく。

その道は、誰にとっても、きっと身近な世界なのだ。

取材・執筆 山本千尋