「環る」街の美化請負人『有限会社環境サービス 代表 宮原公平さん』

「あくまでも表舞台で紹介されるべきは『動脈産業』で、我々の産廃処理業は『静脈産業』やけんね」
そう語るのは有限会社環境サービス代表の宮原公平さん。

昭和43年佐世保市に生まれ、早岐小学校、早岐中学校、佐世保実業高校、大学進学で県外へ出た。幼少時代は早岐で過ごし、『独楽回し』が大好きな田舎の少年だったという。

大学卒業後は長崎で仕事をし、30歳で佐世保に戻った。それから現在26年、およそ半世紀佐世保で過ごしたことになる。

「高校受験で失敗したっちゃんね。佐世保工業に行きたかったとけど落ちて、挫折してね。そいで佐世保実業は商業科に行ったとよ。でも結果そいが良かったとかもしれん。片っ端から意地になって資格を取った。簿記から何から取った。結果、経営者になるのにそれが役立ったですね。でも、それを狙って行ったわけじゃない」

狙って行った訳ではないが良かったことも。高校時代で友人であるとかネットワークは広がったと言う。

その頃に宮原さんの父親が有限会社環境サービスを設立開業した。1985年、当時宮原さんは17歳、高校2年生だった。

「父親がやってることなんて何も考えちゃいない。何も思っていなかった。背中は見ているんだろうけど、何しよるっちゃろう?くらいしか思っていなかった。継ぐとかそんなこと考えもしないし、何のプレッシャーも無かったよ」
と飄々とした感じだ。

アルバイトから学んだ学生時代

「高校出て就職という選択肢もあったけど、大学ってものがあるんだし、行ってみるかと。何の目的もなかったけど、受験して進学することにした。勉強しよらんやったですね」

第一経済大学経済学部へ入学し、アルバイトに没頭した大学生活だった。焼き鳥屋、アイスクリーム屋、コンビニの弁当製造、そしてコカ・コーラボトラーズ。今のようにマイナンバーカード等もなく、扶養控除など関係なく、稼ぐだけ稼いだという。

アルバイトの中の何気ない会話の中で宮原青年は様々なことを学んだ。中でもで印象に残ったのは、宅配業のバイトに行った際に、現場の責任者の方に言われた言葉は脳裏に焼き付いていると言う。

君はいくら稼ぎたいのか」と問われ、宮原青年は思っていたことをそのまま「バイクを買いたいので15万くらい稼ぎたい」と答えたそうだ。

すると、責任者は「15万とはっきり目標があれば、君は続くだろう。いくらでも良いなんて言う奴は続かない。そんな安易な考え方では仕事は続かない」と言われたそうだ。

宮原青年は何するにせよ「目標」をしっかり立てて実行することが大事だということを学んだという。アルバイトでは、その現場での何気ない会話の中に学校で習わないインパクトのある話が数多くあった。

現場の先輩から学ぶ姿勢、それは現在の現場を重んじる経営者として の信念に役立っているのかもしれない。

ハラハラの大学卒業

宮原さんは大学卒業後は「北九州コカ・コーラボトラーズ」に就職するのだが、これも学生時代のアルバイトによる。給料面の条件も魅力の一つだったが、正社員の働く制服姿に憧れて入社したいと思ったそうだ。

しかし実は大学卒業にあたって一つの難関があった。単位がギリギリで卒業が危うかったのだ。頭を抱えていると就職課の先生に呼び出され、アドバイスをもらった。公務員試験を受けて公務員を目指せ、そうすると結果次第で単位を貰えるかもしれないぞということだった。

宮原さんは卒業の単位を貰うためと、ありとあらゆる公務員試験を受けまくった。市役所、郵便局、長崎県警、その中で長崎県警に受かった。

宮原さんは県警から合格証を貰うと就職課へ提出し、先生の助言通り卒業単位を貰うことができた。

しかしながら当の宮原さんは警察官の道には進まなかった。そう、北九州コカ・コーラボトラーズの正社員の姿に憧れていたのだから。そこで、警察学校入校前に県警を辞退し、第一志望の北九州コカ・コーラボトラーズ入社へと念願が叶った。

現場を大切にし、お客様を大切にし、いかんなく力を発揮した会社員時代

晴れて入社した北九州コカ・コーラボトラーズには8年在籍し、営業、配達に従事した。現場をしっかり守り、お客様を心から大切にした8年間だった。

「人が口にするものは世の中で一番綺麗なものだと思っている。そういう物を営業して販売することの大切さを勉強させてもらったね。また組織や人の中で仕事すること、スキルとかモチベーションといったものを給料をいただきながら勉強させてもらった。自分の中で宝だと思っている」

奥様とはこの8年の間に出会って結婚した。当時、奥様は取引先の方であり、宮原さんの現場での鋭い眼配り気配りはここにも生かされていた訳である。

担当する自販機はマメにチェックし、奥様とのドライブデートでも自販機を回って蛍光灯のチェックするなど余念がなかった。担当する自販機を綺麗にする。それがいつも頭にあった。結果、社内で売上が一番になって表彰もされた。

ある日、自販機をチェックして回っていると、購入されているご婦人が「ああ!間違ごうた」と嘆いていた。温かい物と冷たい物を間違ってボタンを押して購入されていたのだ。

そんな場面に遭遇すると、宮原さんはすすんで笑顔で自販機を開けて交換して差し上げた。

何度かそのような場面に遭遇して、誰も間違えることがないようにしたいと思い、自分なりに工夫して『冷たーい!』『あったかーい!』という表示を自分で手作りし、自販機に分かり易く貼って回った。

「やっぱりお客さんが欲しいものをちゃんと買えるようにせんばと思ってね。もう内職みたいにラベルを家で作って貼ってたよ。そしたら本社がそれを採用したとよ」

現場をよく見て、その中で何が大切かを判断し、即実行する。その行動が北九州コカ・コーラボトラーズ本社を動かすにまで繋がった。大きな実績を作ったと言える。

そうこうしている中、ある日父親から電話があった。

公平、そろそろ帰ってくるか?継ぐか?

宮原さんはこんな話を父親からされるのは初めてのことであった。父親の会社のことは全くわからないが、一生に一度のことだ、奥さんと相談して「帰ろうか」と話をした。

環境サービス入社、あくまでも現場から自然体で

1998年8月31日、会社の仲間も気持ちよく背中を押してくれて、宮原さんは円満退職した。

退職日までいつも通りきっちり働いて、翌日9月1日、環境サービスに入社した。有休消化など1日も取らなかった。

会社の中で如何に宮原さんが評価されていたか、嬉しいことに退職して26年、いまだに会社から毎年茂木琵琶が送ってくるそうだ。功績はもとより、宮原さんが如何に皆から愛されていたか想像にたやすい。

環境サービスに入社して、社長である父親から「営業は一切するな」と言われ、現場仕事に注力した。他の社員と一緒に廃棄物の回収、帰ってきて回収物を整理する。全く右も左も分らなく、淡々とこなしてきたが、まあ転職ってこんなもんかな?とも思った。

しかし現場の仕事をする中で「これはこうしたらどうかな?」とか、社員の皆で仕事のやり方を構築した。

親父の会社ってことで甘えられる部分もあったかな?しこたま頑張ったという記憶はない。まあ楽しく仕事したかな?

宮原さんが入社し、現場にも馴染んでくると社長は自然と会社に出てこなくなった。それでいつしか自然と社員達から「社長」と呼ばれるようになった。実質周りから認められ、頼りにされていたのだろう。

「なんかいつの間にか自然と呼ばれていたけど、都合悪いときは『社長は別にいますから』と言っていましたよ」

そして令和2年10月、宮原さんは正式に社長に就任した

将来的にご自身の息子さんが帰って来て、会社に入ることになった時も、その自然の流れでいいかなと言われる。あくまでも自然の流れで自然体でという感じだ。

現場肌の社長、社員のことを考えればこその『居場所』

仕事以外の人となりが何か出てくるかと『趣味』を聞いてみた。

少し考えて「何もないのが趣味かな?」とよく分からない返答。すると近くにいた奥様が一言「だってほとんど会社に居るもんね」と半笑いのご様子。

まあ出張がないときは毎日会社におるとですよ

365日街は動いており、街にはゴミは出る。よって社員は出勤する。そうすると最高責任者である社長は、何かあったときには出て行ける状態にしておきたい。いつ何が起きるか分らないという訳だ。

故に一番落ち着くのは17時に社員がみんな帰った時にようやくホッとするそうだ。「ホッと」どころか、胸を押さえて「はあ~」っと言われていた。

趣味と言えば仕事終わって帰ってカミさんとご飯食べてお酒飲むんだけど、飲んでソファーでうたた寝するのが趣味ですかね。至福の時ですよ
取材中、奥様も横でニコニコされている。現場男どころか心底仕事男だ。

何も起きないことが一番。常にみんなが安心安全に働くことができる環境を作ることが自分がやるべきこと。その為には、自分も社員と対等な立場で身をもって経験ていくことが最良のやり方だと、宮原さんの『現場第一主義』は徹底している。

街が動いている以上、休みがない。環境サービス社員一同『街』にゴミが無くなれば『気持ちが良い』という。昨今『エッセンシャルワーカー』という言葉も出てきているが、街を綺麗にする『奉仕活動』をしているというステイタスを感じているという。

「ゴミ屋ではあるけど会社も車も綺麗にはしているよ。でも『静脈産業』であることに変わりない。エースで4番じゃなかっちゃんね。エースがおればキャッチャーも野手もいる。必要かとさ」

環境サービスは社員のモチベーションを如何に保つかと、ありとあらゆる経営努力をしている。車両を綺麗にしておくことはもちろん、社員の待遇面、福利厚生、そして制服などありとあらゆる面に神経を配っている。

人材採用面では募集はほとんど出していないが、『募集していませんか?』と問い合わせがくるらしい。人材は『動脈産業』など他所で人生経験をして来たほうが良いと言う。しかし、採用者は中途で来ても我が社で終わるという方が多いと胸を張る。働く社員さんの姿からそれも頷ける。

手作りロゴマーク「環る」

環境サービスは最近ロゴマークを作成したそうだ。

「カミさんと話していて、『うちってロゴマーク無いよな』って言ってたんです。それで環境の『環』ってなんやろ?って言ってたら『環(還)る』(めぐる)だなと思ってたら、カミさんが筆で書いてきたんです。ロゴはその字そのまんまですよ」

その場で奥さんが習字で書かれた文字がそのままロゴになったという。現在このロゴは全ての車両に貼って、その文字の通り町中を還っている。

この『環』には『循環』の意味も兼ね添えた『持続可能な取り組み』への意識も集約する漢字だそうだ。正に社に適したロゴマークではないかと思う。 時々車両のロゴを見て「何て読むんですか?」と聞かれることもあるが、それも宣伝になっているという。

オレンジの回収車は今日も看板を背負って各地を環る。

忘己利他(幸福の原動力)利他の精神で

社長席の背後に、マジック書きの一つの言葉が貼ってあった。

書いてある言葉は
忘己利他(幸福の原動力)
読み方は「もうこりた」。

あるお寺の片付けの仕事に行った際に、住職から一服してお茶でも飲んでいきなさいと言われ、その時にいただいた『書』らしい。

もうこりたって、もう懲りたーって思うたい。そうじゃなくて、『利他の精神』己のことは忘れて、人の利のためになることをしなさいってことなんですよね。僕は根底にこれがあるかもしれない。いい言葉で大事にしている

大事にしている言葉を話した後にこうも続けた。

「しかし100%ボランティアという訳にもいかん。強さが必要だし、やったことのどれくらいのことが自分に返ってくるのかは分らんし、それは永遠に分らんやろう。分らん方が続くんだろう」

「人」として地元への奉仕活動を思う

宮原さんは、事業とは別に早岐町との関わりがあり、佐世保に帰ってきてすぐ早岐地区の補導員になった。生まれ育った街への恩返しのつもりで奉仕したということだ。

タバコ・シンナーをやる非行少年などはいないが、例えば家庭内暴力とかがあった場合に『助けて』と呼ばれる声があれば駆けつけられる、青少年が安心安全に暮らせる街にしたいと思っての行動である。

故郷への恩返しの一つとしてできることを手探りで一つ一つ実践している中で、補導員は4年前に辞めたが、現在は「保護司」としての活動を行っている。

故郷・早岐の街のキーパーソンズになって

宮原公平さんは、子どもの頃に早岐の河川での花火大会や、茶市によく行ったそうだ。

これらの催しが大好きで、とても楽しみだった。少子化であったり様々な背景もあるが、これらが続いていないという現実が寂しい。早岐出身の『人』として、事業者として早岐の町をもう一度盛り上げたいという気持ちからハイキーパーソンに加わったと言う。

「ハイキーパーソンの一人一人が『Key』であり、パーソンがパーソンズになって、どう化学反応を起こすか。今は未だ見えんけど、事業をしている以上、恩返ししたい。小さい100ピースのパズルより1,000ピース、1万ピースのパズルの方が時間もかかるけど面白い。でも一つ一つのピースに個性があって形も違って、そのピースをどう使うのか先ずは見てますけどね」

組織が行く先の道をどう開拓するのか今は動向を見ている様子だが、一方では今か今かとスタートを切るのを心待ちにしている感もある。

取材をした事務所、社長のデスクからよく見えるところには大きな窓があり、回収車が 出入りする様子がよく見える。宮原さんはデスクワークをしながらも事務所に居ながら社員の皆さんを見送り、迎え、見守る。

社員の安全を願って、心は皆と共に現場にあるに違いない。今夜の奥様の手料理とお酒を楽しみに。