
早岐瀬戸に面した食鳥処理工場「佐世保ブロイラーセンター」。機械化が進む現代において、あえて「完全手さばき」を貫く稀有な企業だ。その現場を支えているのは、「チャレンジさん」と呼ばれる障がいのある職人たち。
かつて倒産寸前の危機にあったこの工場を救ったのは、強面で冗談ばかりの社長・村上諭さんと、経理を中心に経営を支える緻密な常務・林順子さんの異色タッグだった。
村上「いつも一緒にいるんで、よく夫婦に間違えられるんですよ」
二人は阿吽の呼吸で、従業員(「チャレンジさん」含む)という「大家族」を支えている。なぜ二人は、これほどまでに従業員を愛し、会社を守り抜こうとするのか。その原点は、痛みを知るからこそ持ち合わせる、弱き者への深い共感と優しさにあった。
「人手不足」が結んだ、30年以上の絆

この会社と障がい者雇用との関わりは古い。始まりは30年以上前、平成元年に遡る。当時、近隣で大型のリゾート施設が開業。それまで工場の主力だった地元のパート女性たちが、こぞってそちらへ流出してしまったのだ。
林「最低賃金が当時490円台だったのが、リゾート施設は東京と同じ700円。当然、みんなそっちに流れますよね」
深刻な人手不足に陥った会社が、藁をもすがる思いで採用したのが、知的障がいを持つ一人の青年だった。
林「最初は大変でしたよ。でもね、彼らは一度仕事を覚えたら、サボることを知らない。健常者がタバコ休憩している間も、黙々と、真面目に働き続けるんです」

そのひたむきな働きぶりに助けられ、会社は積極的に障がい者雇用を進めていった。ピーク時には従業員の75%にあたる十数名を障がい者雇用するまでになり、彼らは欠かせない戦力として工場を支えていた。重度障害者多数雇用事業所として表彰も受けた。
しかし、平成20年代に入ると状況は一変する。最低賃金の上昇と販売価格の低迷。手作業ゆえに人件費が膨らみ、作れば作るほど赤字が増える構造的な欠陥に陥っていた。借金は2億円近くに膨れ上がり、倒産が現実味を帯びていた。
林「機械化して人を切るか、人を守って会社が潰れるか」
究極の二択を迫られる中、当時経理を担当していた林さんは、ある決断を下す。
林順子の物語:原点は、寺で過ごした幼少期

林さんが見つけ出した起死回生の一手。それは、会社とは別にNPO法人である就労継続支援A型事業所「チャレンジ」を設立し、長年共に働いてきたスタッフをそこへ移籍させるという大改革だった。
会社の利益を守るためではない。会社が潰れてしまえば、30年間共に歩んできた彼らが路頭に迷うことになる。彼らが働き続けられる「居場所」そのものを守るための決断だった。
なぜ林さんは、そこまでして彼らを守ろうとするのか。その原点は、彼女自身の幼少期にある。
林さんの実家は佐世保市内で商売を営んでいた。両親ともに忙しく、林さんは3歳の頃まで親元を離れ、母方の実家である佐賀のお寺に預けられて育った。

林「商売人の家やったけん、『子供はゴロゴロおって狭いだろう』って言って、長女だった私が預けられたんです。その後、2番目の妹も預けられてきましたが、妹は泣いてすぐに実家に帰された。でも私は小さい頃から親元を離れて、お寺で育ったんです」
夜、布団の中で寂しさをこらえる日々。「自分はここにいていいのだろうか」という幼心の孤独。妹は泣いて帰ったが、自分は泣かずに耐えた。「諦め」にも似た感情の中で、彼女は自立心を育てていった。
その経験が「親のいない子、居場所のない子を放っておけない」という、現在の強烈な母性に繋がっているのかもしれない。林さんにとって、会社にいる障がいのあるスタッフたちは、単なる従業員ではない。かつての自分と同じように寂しさを抱えた「守るべき子供たち」なのだ。
林「この子たちは生涯孤独な子も多い。親がいなくなったら誰が守るんでしょう。だから、私たちが骨を拾う。お墓に入るまで面倒を見る覚悟でおらんと」
林さんの想いの強さは、幼少期の孤独が裏打ちされた「愛」そのものだった。
そして迎えた平成25(2013)年12月20日。県からNPO法人の認可が下りたその日、事件は起きた。喜びも束の間、林さんを激しい頭痛が襲ったのだ。脳梗塞だった。

林「嬉しくてね、あちこちに電話しよったら、だんだん頭が痛くなって。病院には自分で行きました。左側の感覚がなくなりかけていて、途中で車をぶつけながら(苦笑)」
病院に着いた林さんは即入院に。「過労がたたった」と普通の人は思うだろう。でも林さんが何より気にしていたのは自分の体ではなかった。
林「入院中、化粧をしていない顔を当時の社長に見られたのが一番ショックでしたよ」
どこまでも仕事人間。命がけで会社と従業員を守ろうとした、執念の証だった。
村上諭の物語――亡き息子との日々、10年の「帝王学」

一方、現場を統括する村上諭さんにも、ここに至るまでの壮絶なドラマがある。
19歳でこの会社に入社した村上さんだが、21歳で一度退社。「少しやんちゃだった」時期を経て、31歳の時に再びこの会社に戻ってくることになる。その理由はあまりに切実なものだった。
村上「当時、小学4年生だった息子が病気で寝たきりになったんです。意識障害があって、24時間の介護が必要になった。前の仕事では時間の融通が利かない。それで、定時で上がれる仕事として、またここに戻してもらったんです」
かつての上司だった林さんが、「戻っておいで」と声をかけたのだ。

村上さんは仕事が終わるとすぐに帰宅し、息子の介護にあたった。胃ろうのチューブを通し、痰を吸引し、下の世話をする。「看護師になろうかと本気で勉強した」というほど、必死に息子と向き合った。しかし、願いは届かず、息子は中学2年生、わずか14歳で天国へと旅立った。
村上「あの子が僕に『ケアの心』を教えてくれたんだと思います。一番弱い立場にある人に、どう寄り添うか。言葉で言わなくても、何を求めているのかを感じ取る力。それは全部、息子が残してくれたものです」
息子を亡くした後、村上さんは正社員として復帰。営業職などで頭角を現していく中、当時の工場長であり役員でもあった人物が急逝するという事態が起きる。後任の役員を誰にするか。「弱者に寄り添える人間性」と、現場の荒くれ者たちも束ねる「人を惹きつける力」を持つ村上さんに、林さんは白羽の矢を立てた。
村上「男はね、肝が据わっているようで、最後の一歩が踏み出せん生き物やけん。そこを後ろから押してくれたのが今の奥さんでした」
役員就任を躊躇する村上さんの背中を、林さんと村上さんの妻が「あんたがやるしかない」と力強く押した。そこから林さんによる、徹底的な次期社長育成、いわば「帝王学」の伝授が始まった。

銀行回りや業界の会合、どこへ行くにも村上さんを同行させた。本人がまだ決意しきれていないうちから、周囲に「次の社長は村上です」と吹聴し、10年かけて外堀を埋めていったのだ。
ある意味逃げ道を塞がれ、経営者としての振る舞いを叩き込まれる日々。しかし、村上さんが腹を括った本当の理由は、林さんの計算ではなく、自身の内側にあった。
村上「この会社には、他に行き場のない子たちがたくさんいる。あの子たちを守るには、自分が盾になるしかない」
亡き息子に重ねてきた「ケアの心」が、経営者としての覚悟に変わった瞬間だった。
平成29年、村上さんは代表取締役に就任。林さんの想いを受け継ぎ、従業員の「父親役」として現場に立ち続けている。
血縁じゃない「カゾク経営」、そして笑える未来へ

二人の想いが形になった現在の組織は、「企業(佐世保ブロイラーセンター)」と「福祉(NPO法人チャレンジ)」の両輪で動いている。
障がいのあるスタッフは「チャレンジさん」と呼ばれ、工場での加工作業を請け負う。企業側は人件費を抑えられ、NPO側は国の制度を活用して、利用者に給料を支払うことができる。
「可哀想だから雇う」のではない。”戦力”として雇い、正当な対価を払う。

企業はコストダウンで存続し、スタッフは安定した給料と居場所を得る。このWin-Winの構造こそが、二人が生み出した「最強の経営戦略」だったのだ。
そして今、この「人を守るための決断」が、思いがけない形で会社に恩返しをしている。それが「完全手さばき」というブランディングだ。
かつて経営危機の際、会社は「効率化のために機械を入れるか、人を守るために手作業を残すか」という選択で、後者を選んだ。「時代遅れ」な選択だったかもしれない。しかし、大手メーカーが効率化のために機械化を進めた結果、「完全手さばき」ができる工場は日本でも数えるほどになった。

村上「機械で無理やり引きちぎった肉と、人の手で繊維に沿って包丁を入れた肉は、味が全然違う。ドリップが出ないし、刺身のように断面が美しい」
村上さんは胸を張る。特に、機械では取れない希少部位(せせりや内ももの塊など)の品質は圧倒的で、その噂を聞きつけた東京や福岡の有名飲食店から、「ここの鶏じゃないと駄目だ」という指名が相次いでいるのだ。
「優しさ」や「情」で守ったはずの場所が、巡り巡ってビジネスとしての「強さ」となって返ってきたのだ。

現在、会社は村上社長を中心とした盤石な体制で動いている。林さんは「いつでも引退できる」と言いつつ、まだまだ現役の「ラスボス」として目を光らせている。
目指すのは、「一番弱い立場の人が、一番安心して暮らせる会社」、そして「100年続く企業」だ。
そして村上さんには、ある密かな「野望」があるという。
村上「僕の夢はね、いつかここに林の銅像を建てることなんですよ」

冗談めかして笑う村上さんだが、その目はどこか真剣だ。
村上「会社が潰れかけて、僕自身も人生のどん底にいた時、救ってくれたのは林でしたから。銅像でも建てんと割に合わんですよ」
隣で「やめてよ(笑)」と呆れる林さん。
緻密な常務の計算と、陽気な社長の人情。そして二人に共通する、弱き者への深い愛情。二人が守り抜いたのは、単なる鶏肉工場ではなかった。血の繋がりこそないが、社会からはみ出しそうになった人たちが心から安らげる、最強の「実家」のような場所だった。
今日も工場には、包丁のリズムと、村上さんの冗談、そして「チャレンジさん」たちの笑い声が響いている。
取材・執筆 出口やえの