
波佐見町生まれの尾崎陶器株式會社5代目社長の尾﨑英子さん。実は4代目である彰宣さんが急逝したため、22年間の専業主婦を経て社長に就任した異例の経歴の持ち主だ。突然の社長就任での苦労やコロナ禍での経営改革など、逆境を社員と一致団結して乗り越えてきた。
そんな英子さんの人生を紐解いていく。
尾崎陶器株式會社の歴史

明治10年創業の尾崎陶器株式會社は、創業者が10代の頃に焼き物を担いで販売する「担ぎ売り」から始まった。個人商店として運営したのち、昭和46年に社屋を建てると同時に法人化された。
3代目の好弘社長(現社長の義父)は割烹食器分野で初めてカタログ販売を導入した。その結果、営業活動していない場所へもカタログが行き渡り、会社の裾野が広がった。
その当時の割烹食器分野は「カタログを作る=在庫を抱える」というリスクに二の足を踏み、カタログ販売をしている会社は皆無だった。尾崎陶器株式會社が割烹食器分野初のカタログ営業を始めた結果、カタログ販売が定着した。

4代目の彰宣社長は大学卒業後バブル全盛期にサントリーへ入社。そしてバブル崩壊後に地元へ戻り社長に就任した。時代の転換期を乗り越えるビジネススタイルを確立するため、有田との連携強化に尽力し、青年会議所や中小企業同友会との交流を深めていった。
「主人や義父のおかげで今でもお客様や仕入先様との御縁が続いています。また、歴代勤めてくれた営業スタッフにも感謝しています。続けてきたことの凄さ、先代からの力を実感しています」
都会を夢見る少女時代

波佐見の西山陶器が実家の英子さん。祖母は有田商人の娘。クラスメイトに窯元の子や生地屋の子がいるなど、地域の分業制で成り立っている波佐見で生まれ育った。
当時の波佐見焼は「有田焼」として出荷され、波佐見焼として出荷できなかった。そのため波佐見の商社や窯元が通産省(現在の経済産業省)などに「波佐見焼」として出荷出来るよう長きにわたり働きかけ、波佐見焼の価値向上に貢献。英子さんは波佐見焼の歴史を目の当たりにして成長した。
「この業界にまみれて育ちました。地域の分業制の中で働く人が好きです。いろんな人の技術の集結で出来る陶器に魅力を感じていました」

そんな英子さんだが、高校生になり都会に憧れを抱いた。
当時、地元の若者のほとんどが関東や関西に進学し、卒業後に地元へ戻って家業を継ぐ。都会に出た経験が経営に活きるからと、親や親戚からも都会に進学することを推奨されていた。
「今みたいに通信販売もインターネットもなかった。15〜16歳から、都会の空気を吸わせてくれよ!と思っていました。都会に行って戻ってきたらお嫁さんになる。それが夢でした」
高校卒業後は希望通り、東京の短大へ進学して家政科で住居学を学び、卒業後は設備メーカーに就職。3年間勤務したのち地元に戻った。
ピンと婚から専業主婦へ

英子さんが地元に戻ってからしばらく経った頃、陶器業界の関係者からの紹介で彰宣さんとお見合いをすることに。彰宣さんは28歳、英子さんが23歳の時だった。
第一印象はすごく優しそうで、しっかりとした考えがある方。お見合いの時にピン!ときたそう。彰宣さんとのお見合い時の会話で価値観が一致していると感じた。そのエピソードは英子さんだけの大切な思い出として心に仕舞っている。
「主人とは運命的というか。高校時代に川棚のアンデルセンへ友人の付き添いで行きました。そこのマスターに結婚相手の苗字が見えると言われて、その時は聞きたくないと、1人で帰ったのですが、友達が代わりに聞いていたらしく。結婚後に久々に再会した時に、尾崎に嫁いだと話すと、仰け反るほど驚きました。マスターから聞いた苗字が尾崎だったそうです。そういうこともあり、運命だったのかなって」
この初めてのお見合いで結婚。女の子1人と2人の男の子に恵まれた。専業主婦として社長業に勤しむ彰宣さんを支える結婚生活だった。
「主人はモノが売れなくなった転換期に三川内町へ戻り、社長に就任しました。自分よりも年上の営業マンや先代の社長の価値観と、自分が東京で学んだ価値観とのギャップに苦しんでいたようです。私は会社の経営のことは分からないけれど、家の中では自分は主人の味方だという想いでした」
ご主人の急逝・コロナ禍・逆境の中の経営改善

ターニングポイントは2つ。1つ目は彰宣さんが50歳で亡くなった時だ。
彰宣さんは病気を宣告されていた。
しかし治るつもりで前向きに治療に臨んでいた。まさか亡くなってしまうなんて本人はもちろん、誰ひとり想像していなかった。まだまだ治療が続くと信じていた中で迎えた最期、英子さんに言い残すことなく逝ってしまった。
急逝の際は仕事の引継ぎはおろか、印鑑がどこにあるかも分からない。大事なものの保管場所すらわからない状況だった。
当時、英子さんは45歳。事業は畳むつもりで、先代にも事業を継続することは出来ないと伝えていたそう。状況が一変したのは社員からの直訴だった。「まだ、仕事は続いていますから。とりあえずやってもらわないと困ります」。事業を畳むにしても誰かの名義でやらないといけない。
考える暇なく社長就任となった。
「田舎で待遇的には恵まれていない業界なのに、その仕事へのモチベーションってどこから来るのだろう? そう考えたときに、皆この陶器業界を純粋に好きだからだろうと。正直に言うとここを離れたいという気持ちもあったが、その思いに応えて頑張ってみようと思いました」

2つ目のターニングポイントはコロナ禍だ。
緊急事態宣言の際に出張や展示会が一切出来なくなった。そこでコンサルタントの先生と協議を重ね、会社の規模を縮小して持続しすい体制に変更することにした。
「やっぱり人に辞めて頂くことは本当に辛い。極限まで何かもっと出来ないのか? そう考えて悩んだ末に、人員削減に踏み切った。今は引き継いだ当初の半分の規模で運営しています」
次に取り組んだのは窯元との関係強化。コロナをきっかけに廃業する窯元も出て、今までは当たり前だった商品の確保が難しくなった。営業が窯元へ顔を出すことで、信頼度向上に力を入れた。何か出来ることがないかを社員全員で考えようという風潮へと、コロナをきっかけに変わった。
「主人の頃のトップダウンの体制から、社員が一丸となり協力する体制に変わりました。私がぽっと言ったことも実現できるように社員が支えてくれます」

その一例が倉庫を改良したHIZEN SHOPだ。築100年の倉庫を一部開放公開し、小売卸売スペースとしてオープンした。肥前地区から集めた器がノスタルジックに並んで、宝探しのようで大人がワクワクする空間となっている。
新旧の在庫が混在する倉庫を皆で整理した。動いていない在庫を皆で共有することで、社員の在庫の意識が変わり、以前はやらされ感があった陶器市だったが、持っていかないと在庫が減らない!と主体的に取り組むようになった。
「私は大局的なモノの見方は出来ないけれど、コロナ禍は家の中を見渡すように主婦目線で社内の改善に努めました。会社にとっては貴重な時間でした」
縁あってこの業界に入ってきてくれたからこそ
長く勤めやすい環境づくり

現在の尾崎陶器株式會社の社員は陶器業界に魅力を感じ、異業種から転向した人が過半数を占めている。英子さんはその陶器業界への気持ちを大事にしたいと考え、休みやすい体制でプライベートを健やかに保てる環境づくりを心がけている。
「自分を大事にして欲しい。自分を犠牲にしてまで仕事をするのではなく、自分が心地良い状況で仕事をして欲しい。そして、この陶器業界を好きだということを大切にして欲しい。できるだけ勤めやすい環境にしてあげたいと思います」
社員に望むことは仕事を抱えこまないということ。仕事を開示して共有することでお互いが無理なく負荷分散が出来て、心地よく働くことが出来る。
「縁あって会社に勤めてくれるから、長く勤めて欲しいと思っています。とにかく健康的にみんなで仕事を開示しながら助け合っていく。そういうマインドを大事にしています」

陶器の町で生まれ育った英子さんだからこそ、度重なる逆境を女性視点の改善で乗り越えることが出来たのだろう。
業界の話をするときの凛とした表情と、少女時代や家族の話をするときのふわりとした優しい笑顔、その奥には陶器業界への愛情が溢れていた。