
佐世保―大村間を繋ぐ国道を走ると、道沿いにトラクターなど大型農機具が止めてあるのが見えた。そびえ立つ看板には歴史を感じる社名「吉野優商店」が。ショーウィンドウにはチェーンソーや草刈り機が並んでいる。
「私はここで生まれて、ここで育ったんですよ。この会社の2階で生まれ育って、弟と二人兄弟、機械の中で育ったような、油の匂いの中で育った感じでしたね」と社長の吉野英樹さん、自然の中で伸び伸びと育ったいわゆる「わんぱく坊主」の雰囲気を感じる。
「両親が遅くまで仕事していて、夜中になっても全然飯が食えないし、小・中学生の頃はそんな寂しい感じでしたよ」と当時の家業の忙しさが目に浮かぶ。英樹さんが幼少の頃、社屋の前は辺り一帯田が広がる農耕地だった。

「この道の向こう側は子供の頃は全部田んぼだったんです。だから小学校は向こうに見えよったし、始業のチャイムが鳴ってから家飛び出して、田んぼの中斜めにバーっと走って行きよったです。もう今は斜めに横切って走ることはできんですけど」
田んぼに囲まれた生活は思い出がいっぱいのようだ。
「この幅飛べるやろか?みたいな感じで飛び回って遊んで、そこの前の川にも飛び込んだりしよったですよ。もう今はしとうなかですけどね」
泥だらけになって帰宅するのが日常茶飯事だったらしく、子どもの頃の話を楽しそうにする。正に田畑で育った自然児だったのだろう。周りの農家の人達にもよくかわいがってもらっていたらしい。
創業者の祖父・吉野優と英樹

有限会社吉野優商店は、創業者である祖父の名前がそのまま使われている。祖父・吉野優さんは、孫の英樹さんとよく遊んでくれた。
農機具のモーターを使って木箱のゴーカートを作ってくれたり、早岐茶市で釣って来たヒヨコを手づくりの鶏舎で育ててくれたりもしていた。
ヒヨコは立派な白い雄鶏に育ったが、ある日気付くと鶏舎は空っぽになっていた。すると祖父は英樹さんに新しい自転車を持ってきてくれた。なんと大きくなった鶏は自転車に化けてしまっていた。
「まあ祖父には結構可愛がってもらったというか、甘やかされてましたね」などと思い出話は尽きない。
また祖父だけでなく、農家のお客さんや当時の吉野優商店の社員さんからもよく遊んでもらっていたようだ。
「私は覚えてないんですけど、『昔はよくおんぶしちゃったぞ、肩車したぞ』とか言われるんです。『ちっちゃい時から悪ガキでな』なんて言われても、私は笑って頷くしかなかですよ」 と笑う英樹さんは、周りの大人たちに随分愛されて育ってこられたのだろう。話を聴いているだけで、人柄の良さが伝わってくる。
拠点を田んぼへ、農機具と言えば「あの吉野」

ここで会社の概要を説明する。
吉野優商店は昭和21年に個人事業商店として始まり、当初は駅前の繁華街で農機具の修理などを生業とし、その後26年に有限会社として法人化された。
現在の場所に移転したのは昭和44年のことだ。当時は見渡す限り田んぼが広がる場所に移るものだから、周りからは「なんでそがん田舎にいくとや?」と不思議がられたそうである。しかし、その後他の数社も近くに移転し、現在も経営継続しているらしい。
「まあうちの祖父は先見の明があったとかな、ちゃんと分かっとったとねと思うね」と英樹さんは目を細めて静かに頷く。祖父への感謝の念であろう。
吉野優商店は当時農機具の先駆けで、早岐や佐世保のみならず、松浦、まだ橋が架かる前の平戸まで足を延ばして営業していた。松浦でも「農機具と言えば吉野」と名が通っていたという。
今でも「ああ、あの吉野ね」と言われるそうだ。英樹さんは「看板」(名前だけ)で信用してもらえるのはとてもありがたいし、仕事する上で大切なことだと言う。

移転した翌年の昭和45年、吉野優商店は大きな転換期を迎える。大手農機具メーカーであるヤンマーの方針により、県内の販売店5社で「長崎ヤンマー農機販売(株)」を設立。やがて同社は他地域の販売会社と統合され、この体制がしばらく続くこととなった。
英樹さん、都会から早岐に帰る 「地元を想う心」

一方、英樹さんは長崎大学経済学部を卒業すると、東京の専門学校へ進学していた。当時はバブル期でもあり、就職の受け入れ先は引く手あまたであったので、このまま東京で就職するかとの考えもあったが、反面地元に戻りたいという気持ちもあった。
地元へ戻ると英樹さんは後継ぎの事を考えなければならない。機械を見てはきたが、工学系の学校に行ったわけでもなく、技術の勉強することは山ほどある。しかしまあ何とかなるだろうとは考えていた。
そして平成7年、英樹さんは早岐の実家へ戻ることを選択した。
実家の事業を継ぐとなると一からの修業が必要である。英樹さんは1年間の大阪での研修期間を経て長崎ヤンマー農機販売へ入社した。

入社後ヤンマーは次第に体制を変え、広域販売会社へと合併を進め、事業の方向性、戦略なども変わっていった。そのため、小型の農機具をいくら数売って利益を出そうとも、ヤンマー本社の方針で大型農機具を売るよう要請されてきた。
本社が言うような大型農機具の販売推進を進めるとなると、早岐に留まっていては難しい。しかし農機が故障した場合、メーカーに送り修理に2週間もかかっていたら米は枯れてしまう。やはり直ぐに対応しメンテナンスができる農機具屋が農家の近くには必要である。
「私は、小さい頃からここら辺の農家の人たちのおかげで育ってきた。恩返しじゃなかけど、吉野優商店は、ここから離れたらいかんよね。あの爺ちゃんたちのおかげやけんねと思うて、じゃあ一回うちの会社をヤンマーから独立させようって。辞めて元の形に戻そうっていうことになったとですよ」

英樹さんは、お世話になっている地元のお客様のことを思い、所属していた長崎ヤンマー農機販売のグループから離れて自社を独立させることを選んだ。平成17年の事だった。
この年3月、英樹さんは有限会社吉野優商店の代表取締役となった。その際に社名を変えることも考えたが、「有限会社吉野優商店」の看板を「祖父の名」をそのまま受け継ぐことを決意した。
故郷 早岐を思う・英樹さんの「夢」

英樹さんは自らの事を‟後ろでやいのやいのガヤを言う方”だと分析し、流れに乗って、長いものに巻かれるタイプと言う。社長になった際に、周りからも声を掛けられ佐世保市商工会議所青年部に入会した。
「商工会議所青年部でもやっぱガヤなんですよ、で、後ろでやいのやいの言うてたら、皆に担がれて結局会長をして、県の会長もして、全国の副委員長とかまでやったんですよ。流されてというか、頼まれると嫌と言えないんです」
英樹さんは青年部入会年齢が年齢であったので、在籍期間10年とあまり長くなかったにも関わらず、なんと14もの役職をこなしたという。現在はロータリークラブに在籍し、地域貢献活動している。周りとの繋がりを大切にするのは祖父譲りだろうと自負している。
祖父の時代は牛馬から機械に替わる時代であり、農機具は置いておけば売れる。父の時代はオイルショックで機械があっても油が無いという大変な時代。 現代は地域の特性もあり、農家以外で家庭用の小さな機械が売れる時代で、修理、メンテナンスの需要が大きいと時代背景を分析する。

「地元の需要に合わせた地元向けの営業展開に変えていく必要があると考えています。地元のお客様と密接に繋がり、しっかり生活をサポートできる販売店として信頼を得て、お客様に選んでいただけるような店舗づくりをしたいですね」
また様々な団体で活動してきた経験を生かして、地域にお返ししたい、お世話になった佐世保、早岐の街を少しでも盛り上げたいと意気込む。
「早岐は昔から交通の要衝として重要な『街』でした。現在でもそれは変わりません。県内市内でも比較的に利便性が良く、求められる会社が利便性の良い地域にあれば、ヒトもモノもそこに集まります。魅力さえつくることができれば、まだまだ可能性はたくさんある街ですよね。まだまだもっと栄える『力』を持っていると思います」

社長・吉野英樹さんは、未知の可能性を秘めた、生まれ育った街・早岐の産業をしっかり支え、地域と密着して生活の潤いと明るい笑顔を生み続けていきたいと、地元を愛する昔の「わんぱく坊主」の笑顔で日々活動している。
「東京浅草『かっぱ橋道具街』という江戸時代から続く商人の街があるんです。プロ向けの専門店街なんですが面白い街なんですよ。早岐はこんな街になればいいのにと以前から思っているんです」
かっぱ橋道具街は、古くから続く専門店街であるが、昨今は観光地としても注目されており、海外からの来客も多い街である。
吉野英樹さんは、来店客に色々な提案ができる魅力ある店づくりをしていきたいと、農機具屋からの脱却も視野に、事業・まちづくりの「夢」はまだまだ最終章ではないようだ。
(この記事は、「ライター講座」の一環として開催した受講生参加の公開取材をもとに編集しています。)