(この記事は2022/10/23に開催された「いとなみ研究室」主催の公開取材をもとに編集しています。)
白シャツとグレーのセットアップに身を包んだ44歳は、身長182.4センチと大柄。長さ2ミリの坊主頭は約10日おきに自分で刈り上げる。一見怖い見た目だが、彼が話し、笑顔を見せれば滲み出てくる優しさに安心させられる。周囲の人間が組長と呼び、慕うのは皆が彼の人柄を分かっているからだろう。2022年10月23日、場所は『社会福祉法人 宮共生会』の事務所。宮共生会とは、障害のある方やその家族に寄り添い、障害のある方の雇用や就業を促進、そのサポートをするためのサービスを提供する社会福祉法人。いとなみ研究室における「ひとこと講座 -公開取材とローカル編集-」の公開取材企画で、宮共生会の理事長として、ハイキーパーソンの代表として、そしてこの企画の一人目の講師として原田良太さんは座っている。
人に喜んでもらうことが喜び
現在は奥さんと、7歳、5歳、2歳の3人の子どもたち、そして奥さんの両親の7人家族で暮らす原田さん。料理がとても好きで、子どもの運動会のときには、お弁当に入れるいなり寿司は、皮から仕込む。自身の船を購入するほどに好きな釣りでも、釣った魚は鍋や唐揚げなど、もちろん調理する。最近好きな料理はパスタだ。
原田「料理はもともと好きで、子どものころからやっていたんですけど、料理が前提というよりは、料理を出して、『美味しい、ありがとう』って人に喜んでもらうことが幸せに感じるのかなと思います」。
原田さんが飲み会の終盤で、仲間にラーメンを振る舞うのも、その心持ちからだろう。子どもの頃から、人に喜んでもらうことが好きだった。
次々と変わる環境
原田さんはどのような幼少期を過ごしてきたのか。1978年に佐世保市と川棚町の境目、宮地区にて三人兄弟の末っ子として生まれる。小学生の時は、流通し始めていた初代ファミコンは買ってもらえず、やることが無かった。結果、川で遊ぶか、実家近くの山で興味のない化石掘りをして遊ぶ少年だった。地元の中学校に進学し、卒業後は、佐世保高専へ。受験の動機は、当時仲の悪かった兄が同校への受験に失敗したこと。「俺はちょっと受かったろうかな」と受験して見事合格。「ただ、モチベーションがそれだけだったので、そのあとが全然やる気がなくて」と、一年生を二回したあとに、中退。
中退後は「家には財産は何も残さないから、自分で生きていけ」という父親の言葉から、手に職を付けようと、好きだった料理の道へ。和食の板前を目指し単身で福岡に行くと、偶然佐世保出身の板前と出会い、雇ってもらえることに。しかし一年で挫折し、辞めてしまう。
原田「誰かに食べてもらって、喜んでもらうっていう喜びを感じることができなかったので、挫折したのかなと思います」。
朝7時半から夜の11時まで完全にバックヤードで働き続け、ずっと好きだった料理も、その当時は誰かに振る舞って食べてもらおうという余裕はなかった。佐世保に帰ってくると、カラオケ屋さんでアルバイトを始める。「お前店長やれ」と、結婚して辞めるという当時の店長からの命令で19歳で店長に。歳の近い人や歳上のアルバイトの面接を経験した。その後は、瓦をはめる仕事や、居酒屋でのアルバイトなど転々と職を変えつつ生活していた。
そして福祉業界へ
原田さんに福祉の道を歩むきっかけを与えた人物は、当時佐世保市の職員であり、福祉審議会の委員でもあった父親。障害を持つ方の生活状況や、それを取り巻く家族の現状を聞くことが多くあった父は、退職のタイミングで社会福祉法人を立ち上げることに意欲があった。出資の概念がない社会福祉法人は、費やした私財は寄付という形となる。そのとき、父親から呼び出された原田さんとお兄さん。「失敗するか成功するかわからない事業なので、他人を巻き込むわけにはいかない。二人のうちどちらか、立ち上げの準備を手伝わないか」。父親の問いに、まずは次男として兄の答えを待つと、兄はきっぱりと断った。
原田「だったら俺が手伝おうかなって、最初は軽い感じでした」。
こうして、原田さんは福祉の道を歩み始めることとなる。もちろん、福祉の勉強を一切していない状態からのスタート。独学で福祉を必死に勉強した。膨大な本を読み、一緒に働く人と情報を共有した。
原田「父の息子だからこの仕事ができているって思われたくないということと、初めは別の仕事をしていた父が、この福祉事業の方は僕に任せてくれていたので、父が戻ってくるまでにはしっかり体制を整えておこうというのが当時の原動力でした」。
当時の佐世保市南部地域は事業所が少なく、障害のある方が日中活動をする場所を探しているケースが多かったため、事業開始からすぐに定員20名が決まった。地域のニーズに応えられているということが、父の考えていた課題を少しずつ改善できている実感をたしかに生んでいた。そのようななかでも、当然、父と方向性が違うということは少なくない。
原田「方向性が違うことはたくさんありました。僕は小さいときから言い出したら聞かない性格だったらしくて、父親が『うん』と言うまでしつこくつきまとっていたらしいんですけど(笑)。『お前は大人になってもそうなのか』ってずっと言われてましたね(笑)。ただ、大人になってからは理事会という組織があって、理事の皆さんに納得してもらわないと進んでいけない。親子関係だと、なかなかそうはならないので、理事会を介して議論をするようにしていました」。
親子という立場ではないステージでしっかりと議論する。この取り組みの姿勢からも、原田さんが本気で法人での取り組みに向き合っていることが分かる。そんな、現在の原田さんの原動力とは、いったいどのようなものなのだろうか。
変化した原動力
原田「居酒屋で働いてるときに、酔っ払いの客がすっごいくだを巻いてくるんですけど、最後には笑顔で『ありがとうな』って言ってくれて。それを『また来てください』って帰すのも喜びなんですけど、障害福祉の仕事のときに、人生丸ごと支えているような感覚になるときがあるんです。食事もままならなかった方が、毎週お小遣いをもらって、生活をしっかり改善できたという事例で、『ありがとうね』って言われたときに、その『ありがとう』の重みが全然違うなと感じたんです。それが、この仕事を頑張って続けていこうと思える原動力になっています」。
事業を始めた当時から、2017年に理事長となり、そして現在。その原動力は変化した。変わらないのは料理を振る舞い、人に喜んでもらうことを喜びとしていた幼少期からの原田さんの人間性や心持ちだ。それは現在の福祉の分野で得られる、さらに重みのある「ありがとう」を喜びとする今の活動と、とても根強く繋がっていた。
公開取材の様子はこちらから。
「みせ」の記事につきましては、以下をご覧ください。
「こと」の記事につきましては、以下をご覧ください。